『親子』について考えみた

中学生くらいの頃から、両親が嫌いだった。
虐待や放置など分かり易い何かがあった訳ではなく、むしろ一般的には非常に良識的であり、ほぼ毎日家族揃って夕食、談笑していたし、週末のたびにレジャースポットへ出掛け、連休には旅行にも連れて行ってもらい、幼少期は絵に描いたようなアットホームだった為『親』としては非常に模範的な方々なんだと思う。今でも孫の事をそれはそれは可愛がってくれて金銭的な援助もしてくれる。私の出産の際にも母の手助けが無ければたぶん産後うつ真っしぐらだった。とにかく感謝してもしきれない。
しかし思春期というものが私にも訪れ、その頃に割とこじらせてしまい、絶縁したいとまで思った時期もあったのだ。


一般的によく、"夫婦は似てくる"と言われる事がある。親子もまた然り。一つ屋根の下揃って暮らしていると、概ねの価値観が似てくるのかもしれない。でも私は、たまたまそれに当てはまらなかった。私の価値観は、両親とは大きく方向性を違って形成されていった。それが何故かはわからない。きっとこれと言った大きな出来事があったのではなく、関わってきた人々や小説、漫画(幼い頃から本が大好きだった。絵がある物も無い物も)、映画、ドラマ、アニメ、インターネットの繋がりなど、細かい部分で少しずつ擦れていったのだろう。


本来なら、価値観が大きく擦れているというのは私にとっては喜ばしい事なのだ。自分と似通った価値観の人々ばかりに囲まれて"だよね〜めっちゃわかる〜!"と共感ばかり得る日常なんてつまらないもので、真逆の意見を有する人物の心境を聞いたり、自分では気付き得なかった視点からの意見など聞けた時の快感といったら!話題の結論は二の次で、ディスカッションそのものが楽しいのだ。(非常に面倒くさいタイプだと自負している。私と長い付き合いの数少ない友人は皆とても人が良い。)ただしこれはお互いの価値観を受け入れ合う事が前提の話であって、そもそも自分の物差し以外は受け付けないという輩とは意見交換が成立しない為関わりたくないと思ってしまう(そういう輩、最近ではツイッターでよく見かける)私の両親がまさにそれだった。


1番根本的に擦れていた認識が、親の言う事は絶対に間違っていないのが大前提である事だ。それがある為に、親の言う事に従わない事はもちろんの事『なんで?』と疑問を抱く事すら許されなかった。
幼少期の『なんで?』には二種類あると思っていて、1つは純粋な疑問。例えば遊びに夢中になっている最中、急に『片付けなさい』とだけ言われた時の『なんで?』がこれ。この場合『もうすぐご飯ができるからよ。テーブルにおもちゃが散らかっていたらお皿が並べられないでしょう?』という返答があると、なるほど、と納得する事ができる。
最初から『もうすぐご飯ができるから、お皿を並べられるようにおもちゃを片付けてね』と理由と共に指示を受けたにもかかわらず『なんで!』と言うのが2つめ。これは拒否の意思表示である。嫌だ、まだもっと遊びたい。片付けたくない。その気持ちを表した『なんで』。
私の両親の価値観では、1つめの『なんで』すら許されなかったのだ。『なんで、じゃなくて、ハイ、でしょう。』と、無条件に従う事を求められ続けた。確かに、先程の例では幼児でも理解し易い明確な理由のある指示だったが、到底幼児に説明しても理解し難い内容の場合もある為、先ずは無条件で親を全面的に信頼し素直に言う事を聞き入れる、という事を徹底させるのもひとつのやり方として間違ってはいないのかもしれない。
自分が親になり、子供の『なんで』には全力で応えようと努力してはいるがこれが結構かなりめちゃくちゃ難しい。幼児の理解できるレベルで説明しようと思ってもなかなかうまく伝わらないし、説明の途中でうっかり子供の解らない単語を出してしまうと「○○ってなに?」が始まってしまい、またそれを説明して、本題に戻ろうとしてももう子供の頭はついてこない。更に長女が小学生になってからは、ざっくりとした説明では納得してくれないようになり、かと言って詳細を伝えようとしても彼女に理解できるレベルの言葉が出てこない。自分の語彙力の無さに落ち込む事も多々ある。
育児に正解は無いと散々言われているように、両親と私、どちらのやり方が正しいかは不明だが、少なくとも幼い頃の私は両親のやり方でどんどん不信感を募らせて行く一方だった。


もう一つの大きな価値観の相違が、両親にとって世間体を保つという事が生きて行く上で最も重要である、ということ。両親と同世代のかたがたには、こういった価値観の人が多いのではないだろうか。親戚やご近所、子どもの親同士など狭い世界を全てだと思い込み、常にその事ばかり気にしている。自分自身がどうしたいのかを考え納得のいく選択ではなく、人からどう見られるか、どう思われるかが真っ先に考えるべき優先事項なのだ。幼少期の絵に描いたような幸せアットホームも、今になって考えると周囲へのアピールの為という側面もあったのではないかと思う。結果的に楽しい思いを沢山させてもらっているので良いのだけれど。

私の地元の田舎の祖父母世代では、本家の近所に親戚が家を建てて親戚陣はほとんどの人がご近所さん、というパターンがよく見られたが(土地相続の関係かな?)我が家も私が小学校4年生の頃に、転勤族にも関わらずその親戚陣の集落に家を建てた。新築の大きなお家に最初ははしゃいでいたがそれは初めのうちだけで、すぐに嫌になった。そこは常に親戚陣の監視の目に晒されている牢獄のようだったからだ。
いつ、誰と、どこで、何をしているのか常に把握されていて、それが嫌で中学生になってからは自転車で出来るだけ遠くへ遊びに行った。うっかり高校生の時に彼氏に車で送ってもらったりなんかした日には「知らない車が家に停まっていた!」と大騒ぎになり、なぜか母が問い詰められていた。
そんな環境だから余計に母も"誰が、いつ、どこで見てるからわからないんだからちゃんとしなさい"と私に口酸っぱく言っていた。
常に誰かに見られていると意識するのは私にとって大きなストレスだったし、そもそもなんでそんな他人の事ばかり気にして生きてかなアカンのだと両親に訴えた事もあるが、両親にとって世間様から良くみられる事は"あたりまえに"重要な事だった様で、私の疑問はスルーされた。


自分の意見が絶対的正義であるという事も、異様に世間体を気にする事も、子である私に対しては強要していたものの、子供以外にはそんな素振りは微塵も無かった。というかそれ通常社会でやってたら絶対に関わりたくないヤバい奴認定されている。

つまり両親は、親だから、子供にだけはそれをしても構わないと無意識レベルで実行しているという事になる。そしてそれがすべて子供の為と信じて疑わない。
これは本当に憶測でしかないのだが、"子供は子供であり、親とは別の人間である"と完全に割り切れる人ってすごく少数なのではないか。
極端な話だと、自分の子が凶悪殺人犯になって嬉しい親はまず居ないだろうし、それを阻止するための何か特別な教育を受けなくてもほとんどの人間が"良くない事"であると認識している。
ではこれが、未成年の飲酒・喫煙となるとどうだろう。法律では禁じられているが、私の周囲では稀に『高校生になったら自宅でのみ可』等、他にもその家庭だけの特別ルールを設けている家庭が存在した。
もう少し細かくなると、私の通っていた中学では『子供だけでゲームセンターへ行ってはいけない』といった校則があったが、これも許可されている同級生が稀に存在した。
ここまではそれぞれ法律や校則等、属している集団の中で明確なルールがあった為わかり易いが、それですら『この程度のルールなら破るも守るも自己判断でどうぞ』という家庭が割と存在する。これが『小学生のうちからブランド物の服を着て色気づくなんてマセすぎだ。ありえない。』というレベルの価値観なんてかなり意見が割れるだろう。

それぞれの家庭で、それぞれのやり方があって、虐待などよっぽどの事がない限り他所様の家庭には基本的に口出ししないのが一般的なのに、親子関係となるとやはり親の価値観に基づいたルールである程度、子は縛られる。
その"ある程度"の度が大幅に過ぎると俗に言う毒親になるのかもしれない。しかしその"ある程度"の許容範囲だって親それぞれ、子もそれぞれなのが難しいところだ。


いずれ訪れるだろう思春期や反抗期に向けて、せめて夫婦間では意見が分かれないよう、今のうちから"それぞれ""ある程度"の擦り合わせを夫としていきたいと思う。
#コラム #子育て #育児 #教育 #毒親



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ひとりごと。

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