見出し画像

NILKLY〜服(まつろ)わぬ魂の在処について〜

2019年の早春、「このままでは終われない」と呟いて、その場にいた者に、そこに込められた決意で空間が歪むような錯覚を見せた少女がいたと伝え聞く。

そこをNILKLYの起点に置くというのは、おそらく偽史なのであって、俺は歴史なんとか主義者の誹りを免れないのかもしれないが。

とは言え、今の彼女たちの姿を見るにつけ、黒い翼の物語は一回断絶したのだ、と言ってしまって良いのではないか、とも思うのである。
と言うか。今から2年半ほど前。
彼女たちは順風満帆の船出をしたはずだった。
前身グループから引き継がれたコンセプトもファンもキラーチューンもあったし、事務所としての層の厚さも、ギュウ農フェスに代表される、イベンターからの理解もあった。
シングルのリリースを先行させる方針も、納得できるメンバーを補充していく方向性も、感染症拡大の中でリアルのイベントへの出演を極限まで抑える方針も、それら一つ一つが致命的に悪手だったとは思わない。

ただひたすら、世の中の変化以外にも、メンバーとオタクを含めた人心の移ろいに「間に合わなかった」という印象なのである。
ともかく、「ボス」平澤芽依の脱退を経て、過去の黒い翼の系譜に連なるメンバーは、NILKLYに存在しなくなり、第二期の活動開始から間も無く、彼女たちは翼を脱ぎ捨てた。
おそらく、前身グループ時代からの大キラーチューンであった(らしい)asthmaを彼女たちがいまだに封印しているのには、こうした文脈を踏まえての意味があるのだと思う。

さて。
ここからは第二期の話である。
相変わらずの全身でぶつかるような情熱全開のパフォーマンスに、経験に裏打ちされた風格と大人っぽさを加えたように見える小林潤。
絶対的なダンススキルを持ちながら、持ち前のサービス精神と聡明さで、コミカルな役回りも見事に演じる伊吹咲蘭。
小さな体を感じさせない伸びやかなダンスと、可憐さの中に芯の強さを感じさせる歌声と、人懐っこい笑顔で観る者を魅了する小笠原唯。
ややざらついたディープな低音で青春の「青さ」を体現するような姿と、ステージに舞い踊る楽しさを体いっぱいにたたえる様子を行ったり来たりする長門蓮。

第1期NILKLYが背負っていた、ある意味デザインされた(その活動末期に、それとは裏腹なメンバーたちのナイーブさが明らかになっていった)「叛逆のヒロイン」としてのアイドル像とは異なり、新しい彼女たちにあるのは、少しの「悪ガキ」感を纏ってステージを駆け回る、少女らしい溌剌さだ。

一方で今、長門蓮はグループを「中退」しようとしている。
本人のコメントによれば、学業との両立の問題と、「売れたい」と思えなかった、という、意識の問題だそうであるが。

–––––

さて。
まつろわぬ という古語がある。
ほぼ日本書紀において(天皇の祖先とされる)神々の日本統一に「従わなかった」神や、または大和政権に従わなかった地方の民族(主に蝦夷)を指すだけの言葉である。
現代社会において我々が「まつろう」べしとされるのは、誰かが定めた秩序のようなものであろう。
行儀よく、効率的に、他人に迷惑をかけず、生産的に社会に貢献するその一員として。
または、その手段の善悪を完全に棚上げして「収益」(稼げるか稼げないか)という単一の価値のもとにひたすら序列をつけられるだけのリバタリアニズム的価値観(これはこれで窮屈かつ硬直して疲弊したエスタブリッシュメントへの抵抗、と言う感もなきにもあらずなのであるが。)のもとに、許された幸福を追求せよ、と言う。

……バカを言ってはいけない。
(※勝手な理屈で一人で走っていって地平線に向かって激怒する人。)

昔、たぶん高橋源一郎の小説(またはその書評かなんか)で読んだ「日本文学は自分に表現すべき自我があると勘違いするところから始まった」というような物言いが大好きなのだが、歴史に刻まれる大天才の偉業とやらも、つまるところそうした衝動と、あるいは彼らになれなかった無数の「自我」が涵養した土壌の上に成り立っている と思うのである。

さらに言うなら、その「無数の「自我」」の方にしても、天才たちと同じように「勘違い」をし、それぞれの場所であらぬ方向へと、(何なら少しの、または裏付けのない大いなる野心と共に)衝き動かされるように疾走しただけなのであって、天才たちを育む土壌を涵養するつもりなどでは毛頭あるまい。

ただそこにあったのは、社会の求めるあるべき姿とは別に、思う様「自我」を表現しようとした、あるいは蛮勇のような「まつろわぬ魂」である。

左様な仕儀により、俺はあらゆる表現に内在する「自我」または「まつろわぬ魂」を肯定するのであるし、たまにそれをどうやっても見つけられない表現(であるかどうかすら疑わしい「何か」)にぶち当たって、また一人勝手に憤怒するのであるが。

他方、俺は一応自分を「へそ曲がりの自称音楽ファンのようなもの」(またこの言い方が斜構っている)と定義しているので、「まつろわぬ魂」の在処として音楽がまだ機能している、ということに快哉を叫びたいのであるし、今のNILKLYの在り方と言うものにも、そのことが可視化される思いがあるのだ。

まだ走り出す先を定められていないような佇まいすらも含めて。

そのような思考を辿った結果、いくつかの離合集散を経て、未だ安定しているとは言い難い彼女たちの在り方というものは、ある種避けて通れない通過儀礼を無数に投げかけられているようにも見えるのであるが、その見方はさすがに彼女たちに残酷すぎるかもしれないにしても。

–––––

うん。

何言ってるかわかんないねこの文章。長いばっかで。
隙あらば自分に酔おうとするのやめなさいね野宿くん。話が長いおじさんは嫌われるから。

……ごめんなさい。

ここで俺が言いたいことは、本当はとてもシンプルなのだ。

長門蓮の「中退」について、俺がたった一つ信じていいと思っていることは、小笠原唯の手によって綴られた「本当にやりたいことができた」と言う言葉である。

つまり彼女の「まつろわぬ魂」=自己表現欲求が在るべき場所は、とりあえずここでは無かった、というだけのことなのである。
それは始めてみなければわからなかったことだと思うし、そのこと以上に重要なのは、彼女自身が「ライブを演じる楽しさ」を基本にして、それを見る他者にとっての「楽しい」へと作り上げる経験をした、ということだと思うのだ。
という結論だけをかいつまんで今日(2021年12月26日)話をしてきたら、「うん。わたしも自分の「楽しい」をつくる!」との力強い答えを得た。

なんだ。もう知ってるんじゃんか。
と言う気持ちだ。

ここで得たものを持って、軽やかに次の場所へ歩みを進めるのもまた、羨ましいほどの「青春の特権」である。
どうしてもこう言う文章を書くと、「中退」(て言うか卒業でいいだろ。ワンマンやったんだし。)という変化を選んだ長門蓮にピントが合いがちなのであるが、逆にここに踏みとどまることを選んだ彼女たちにも、それぞれのまつろわぬ魂が、あるべき場所に至る時が訪れることを願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?