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アイドルの恋愛を考える


推しには幸せでいてほしい

ファンにとって、推しの幸せを願う気持ちは
当たり前の感情だと思えるのではないだろうか。

そういうコミュニティに属していると、というかそうでなくても、ファンは誰しも推しの幸せを願っているように感じてしまう。

だが実際のところ、ファンは推しの幸せを心から願っているだろうか。

CDを積んだり、グッズを大量に買ったり、安くはないお金を出して誕生日広告を掲載したり、テレビに出演する際には協力してTwitterを盛り上げたり。

これらは純粋に、
“推しの喜ぶ姿が見たい”
“推しに有名になって欲しい”
というような感情から、すなわち推しの幸せを願っての行動だと思っていた。


しかし最近になって、
多くの場合、ここで言う“推しの幸せ” は
あくまで“アイドルとしての推しの幸せ” であって、推しの“人としての幸せ”ではないのかもしれないと思い始めた。

ファンにもいろいろな人がいる。が、私が思うにかなり多くの人にこういう傾向が当てはまるのではないだろうか。
私自身、推しの幸せを願う趣旨のツイートやnoteを、一切の迷いなく純粋に残してきたつもりだった。

ところが、あるアイドルの熱愛報道に対するファンの反応を見てあれこれ考えたことをきっかけに、“私が願っているのって本当に推し自身の幸せなのかな?”という一種の迷いが生まれたのだ。


実際、「幸せを願っているのではなく、アイドルとして頑張る姿を応援したいだけだ」というファンもいるだろう。


推し方、熱量、距離感は人それぞれであるから、今回は私が個人的にが感じた「ファンが願う、推しの幸せ」への違和感をあくまで自分なりに解き明かしていきたい。


(ここで話すことは、あくまで私がそういう価値観を持っているというだけの話で持論に過ぎない。他人にそれを強制するべきではないし、色々な捉え方があって当然だ。ということを念頭において読んでほしい。)

【恋人がいる=幸せ】とするのは安直だろうが、
好きな人と付き合って、好きな人と会って。
人として、一般的な幸せとは言えるだろう。

事実、たとえファンがそれを知ったら失望だろうと分かっているはずの彼らが、それでも会いたいと思える相手がいるのは、その人にとって幸せなことなのでは?と私は思う。



アイドルに熱愛が出ると、決まって炎上する。

“匂わせ” なんてものが発見されてしまえば、その火は激しく長く燃え盛り、Twitter上だけでさえ、多くのファンが離れていくのが簡単に見受けられる。
あれだけ好きで、あれだけお金をかけていて、あれだけ応援していて、あれだけ幸せを願っていたように見えたのに、その人に恋人がいたぐらいでどうして?と、以前こそ疑問に思っていたものの、自分にも“推し”ができたことで、ある程度その気持ちが分かるようになった気もするのだ。


匂わせも何もなかったとしても、熱愛が出たことに対して失望してしまう気持ちが起こるのは確かに分かるし、仕方がないのかもしれない。

だが、そう感じてしまうのはあくまで自己責任であって、アイドルを責めて良い理由にはなり得ないというのが自分なりの結論だ。


「恋人がいることを認めろよ」と言いたい訳ではない。
「アイドルはどんどん恋愛してください」と言いたい訳でもない。
「熱愛が出たぐらいで離れるのは本当のファンじゃない」なんて見当違いだとすら思う。
ここでわたしが言いたいのは、
ファンはアイドルの生活を制限しすぎなのでは?
なのだろう。

疑問に思うことがある。
たくさん幸せをもらっているはずなのに、どうして推しの私生活の幸せ、特に恋愛における幸せを素直に喜べないのか?

どうしてアイドルの恋愛が認められないのは当たり前なのか?
そういう商売だから、と言って仕舞えばそれまでなのだろうけれど、私は納得はできなかった。

元はと言えば、彼らのプライベートをネタにして稼いでいる人間がいることがおかしいし、許されることではないはずだと思うのだが、今回その問題は一旦置いておく。

本来、ファンは好きでCDを買って、好きでグッズを買って、好きでライブを見に行って、好きで推し活をしている。のだと思う。

楽しくて幸せでやっていたはずで、言ってしまえば、推し活は自分のための行為だと思うのだが、

どうして熱愛がでた途端に、
“貢いでやってたのに裏切られた”
と被害者になるんだろう。

初めに抱いた違和感の正体はそこだった。

全員が全員、そのようにして裏切られたと感じている訳ではないことは分かっているし、あくまで一部のファンの感じていることだろうが、まずはこの違和感を解消したかった。

「貢いでやっていた」のではなく、
あくまで自分の満足のために、楽しくてやっていたのではないか。
それ以上の見返りを求めていたのか?
と思ってしまう。

「女に使って欲しくて貢いでいた訳じゃない」
なんて声を聞いたことがあるが、正直この意見には全く持って共感できない。

アイドルが自分で働いて稼いだお金であって、その使い道をファンが制限するなんて、おかしな話だ。


それはともかく、では一体何のために貢いでいたと言うのか。
「推しに良い暮らしをして欲しいから」だろうか。
実際、ただただ推しに豊かな生活をして欲しくてお金を使っているファンってどれだけいるんだろう。

そして、そこまで豊かな生活をして欲しいと望むのに、その暮らしに恋人がいることが拒絶されるのはどうしてなんだろう。

今まで尽くしてきた好きな人に、好きな人がいたら嫌だろうし、残念に思う気持ちもそれだけ大きくなる、というのは分かる。

ただ、普通にオタ活をしている分には
「自分は〇〇に尽くしている」なんて考えが出てくることは少ないのではないだろうか。

しかし、熱愛が出ると途端にそういう考えが見受けられるようになる、と度々感じる。

熱愛が出た際に、
ファンの間で被害者意識が見受けられるのは
“自分が好きでやっていたこと”が
“アイドルのために尽くしてきたこと”
に勝手に変換されているからなのではないだろうか。

自分の傷ついた心を守る為に、都合のいい解釈をして相手を責める言い訳を探しているだけなのでは無いだろうか。


また、
“熱愛が出たアイドルは当たり前に叩かれるから、みんな叩いているから、叩かれて当然なんだ”
という認識がファンの中にあるようにも感じられる。

でもそれって本当に、“当然”として良いものなのか、自分たちの言動を正当化しアイドルを責める理由になるのか。なる訳がない、と私は思うのだ。


「ファンのことなんてどうでも良かったの?」
と思ってしまうから、裏切られたと感じるのかもしれない。
でも実際、ファンがいないと成り立たない職業であるアイドルが、ファンのことをどうでもいいと思っているはずはないだろう。

マイナスな方にばかり想像が働いてしまうのも無理はないが、どうして「撮られた事実、恋人がいる事実」に執着するばかりでその背景を見ようとしないのだ、と思う。

これはとある一件を見て思ったことだが、
「変装してまで会いたかった」というより、
「ファンには隠し通したかったから変装までした」
という一種のプロ意識だったと私は感じたのだ。


「アイドルは夢を与える仕事なのに」
という意見も目にしたことがあるが、それはただ私たちが勝手になすりつけたイメージに過ぎないと私は感じている。


「撮られるのはプロ意識がない」
「恋愛するな、するならバレるな撮られるな」
なんてのも、ファンがアイドルを非難する際の常套句だが、“撮られないこと・隠し通すこと”ってそんなに簡単なことではないのでは?との疑問がどうしても消えない。

また、熱愛が出るたびに、
“〇〇はずっと隠し通していたのに〜”
といった過去の芸能人の話題が上がるのもお決まりだが、記者がどれだけその人たちに張り付いていたかなんて私たちに分かったことじゃない。
そうも簡単に比較していいものではないだろう。

自分が正しいと思う物差しで皆ものごとを判断するのは仕方ないが、この考えはあまりに偏狭で配慮に欠けると感じてならない。

「アイドルに本気で恋しているから」
なのだろうか。
アイドルに恋人がいたことが分かって、とられたと感じるから?

しかし実際に、推しと繋がること・付き合うことを心から願っているファンはそう多くないように私は感じている。
「ファンに手を出すような推しは嫌だから自分が推しと付き合いたいとは思わない」というような意見も目にしてきた。

ファンがアイドルに“恋人がいないこと”もしくは“恋人がいても隠し通すこと”を強く求める理由っていったい何なんだろう。

「恋人がいない限り、そのアイドルはファンのみんなのもの」
という認識があるからなのだろうか。

これも私には納得できない考えだ。
第一、人が誰かの所有物になることなんて無いという考えが私の中にあるからだろう。

その上、もしそうだとして“恋人の有無によってみんなのものじゃなくなる”という点も理解できない。
恋人ができると、人ってその恋人だけのものになるのだろうか。


よく言う“裏切り”って何を指しているのだろうか。

アイドルが恋愛をしていたこと?
「恋愛をするような生半可なアイドルにお金をかけるつもりはなかった」ということなのだろうか。
恋人にうつつを抜かしてアイドル業が中途半端にでもなっている、なんて目に見えて分かる訳でも限り、生半可とは言えないと私は思ってしまう。

今までの言葉が嘘に聞こえる、とかそう意味なのだろうか。
アイドルは、往々にして愛や永遠を歌う。
でも、恋人がいることでそれが「嘘」になるのだろうか。

アイドルが歌う愛や永遠は、あくまで“アイドルとファン”という関係性の間にのみ成立すると私は思う。それ以上でもそれ以下でもなく、だからこそ、ファン以外に大切な人がいたところでその言葉が霞んだり、濁ることがあるとは思えないのだ。

「墓場まで持ってく覚悟でやれよ」
度々こう言った激しい意見も目にするが、私個人の率直な感想としては、「アイドルってなんでそこまで言われなきゃいけないの?」だった。


アイドルには自由が認められなくて当たり前なのか?
恋愛は世間に受け入れられず、万が一それが世に出てしまった際の仕事への支障は計り知れない。

どれだけ隠し通そう努めていても、それに伴って暴き出そうとする輩がいて、一度撮られてしまえばそれまでの努力は関係なしに、“プロ意識がない”というレッテルを貼られる。

いくらファンを大切に思っていても、恋人がいるというだけで、その言葉や思いが届かなくなることもある。


ファンがいなきゃ成り立たないアイドルだけど、推しに自分の人生を生きさせる気はないの?

純粋な疑問だった。

ただそこに、もしかしたら自分も無意識のうちに推しの人生を制限してるのでは?という疑問も生まれてしまった。

ああ、そうなのかもしれない。と今は思う。


私自身、アイドルの熱愛の相手がファンだったり匂わせをしていたりした場合に「プロ意識がない」と思って気持ちが離れてしまうかもしれないと感じている。

「プロ意識がない」なんてのも、私たちが勝手に押し付けた理想像であって、
本来、アイドルが誰とどんな恋愛をしようが私たちの口を挟めたことじゃないのだろう。

匂わせに関しては、「そんなことで承認欲求を満たすような人であってほしくない、そんな人とは付き合って欲しくない」というあまりに身勝手な願望を押し付けているだけなのだ。


全てただの理想の押し付けだ。
それこそ傲慢なのだ。
とは言っても、「推し活」というあくまで自己満足の場においてまで、常に正しいと思う判断や論理的な思考ができるほど、合理的ではいられないのだ。

もしかしたら推しの恋愛を拒絶する多くのファンも、私も同じなのかもしれない。

合理的で無いと分かっていても、自分が理想とするアイドル・推しでいて欲しくて、隠していた傲慢さが出てきてしまう。

「推し活」がその人にとって「あらゆる縛りから解放される場」であるからなのかもしれない。

アイドルの見せてくれる非日常・非現実が、ファンの中で身勝手な非論理的思考を先行させ、偏った物差しでアイドルを推しを見ることを当たり前のようにしてしまうのかもしれない。


推しの恋愛に限らず、その人の普段の性格や言動も含めて、私たちは自分の中の価値観や経験に基づく偏見で作られたフィルター越しに彼らを見て、解釈し、理解した気になっているのではないだろうか。

そうであるならば私たちは、自分の理想を叶えてくれる存在としての「推し」を見ているに過ぎないというのも否定できない。


ファンがアイドルに真に求めていること、
それは、ただ単に「自分の期待や理想に応えてくれること」なのかもしれない。


ある意味、ファンは表面上では推しの幸せを願っていながら、その陰で自分の幸せを願っている、求めていると言えてしまうのではないだろうか。

それゆえに、熱愛が出ると、今まで見ていた推しがいなくなったというような錯覚に陥る。
そこで膨らんだ恐怖や不安から、
「プロ意識がない」だとか「裏切られた」と言って彼らを責めることで、なんとか自分の世界を保とうとする。


実際、推しがいなくなったのではなく、
自分が作り上げた理想像が崩れただけであり、

これが「アイドルの私生活をファンが制限して良いという理由にはなり得ない」と、あくまで強く主張したいのだが。

好きになるのも、嫌いになるのも自由。
追いかけるのも、離れるのも自由。

どれだけ時間をかけたって、どれだけお金をかけたって気持ちが離れてしまえば推しとの関係はそれで終わりだ。

一見幸せでいっぱいそうに見える推し活には、この危うさが潜んでいるし、それにかける労力が大きければ大きいほど、理想像が崩れた際の落胆も大きくなるのだろう。


私たちは推しのことを
“何も知らない”のではなく、
“全てを知っている訳では無い”のだと思う。

その知らない部分を、自分の理想をもとに勝手に補ってしまっている。

そうやって自分が理想化して見ている推しも、一人の人間で、一人の人間としての生活を当たり前に送っているし、そうあるべきなのだ。


もしそれで私たちの理想が崩れても、
その人が悪いのではなく、自分の認識が間違っていた、と自分の中で済ませるべき問題なのだ。
批判すること、責めることを正当化してはいけないと強く思う。

私たちが自由にアイドルを推しているように、
アイドル自身も誰にも制限されることなく、自由に私生活を送って良いはずだ。
自分が求める幸せを手に入れて良いはずだ。


私は決してアイドルに、
「恋人は作りません」
なんて宣言をしてほしい訳ではない。

これって言い換えてしまえば、「アイドルとして生きるために自分の人生の一部を犠牲にします」なのだと思う。そんなことは望んでいない、と私は思わずにはいられないから。

それでも実際は、これこそが「私たちが無意識のうちにアイドルに押し付けていること」なのかもしれないという可能性も否定しきれない気持ちもある。

ただそんな言葉を聞いてしまうと、「そこまでしなくていいよ自分の幸せを優先してよ」なんて思いが、第一に出てきてしまうのだ。

有名になった時点で私生活は制限されるし、多かれ少なかれ、犠牲を払ってアイドルをしているのは事実だろう。

私たちは「これだけの犠牲を払ってでも夢を叶えたいアイドルがしたい」という決意のある挑戦を応援したいだけなのかもしれない。
それだけ大きな何かを賭けて夢を追う姿が輝いているから、だろうか。

“自分の幸せを優先して欲しい”という気持ちは本音であり、建前でもあるのかもしれない。

これからも私は、そんな思いを、そんな言葉を、推しに紡いでいくのだろうか。

“推し”への気持ちは矛盾に溢れたものなのかもしれない。

「純粋でまっすぐなもの」と言い難いのは事実だ。そこに自分の欲が必ずと言って良いほど入り混じっているから。

“推し”に対してどんな感情を抱こうが自由で、その言動をどう解釈しようが自由で、どう推そうが、自由だ。

それが矛盾に満ちていようが、自由なのだ。

何かと制限され、何かと競争の場に立たされる社会で、窮屈さを感じているからこそ
この自由が、“オタ活”が多くの人にとって心の拠り所となり得る理由の一つなのではないだろうかと私は考える。

だからこそ、あまり難しく考えず、自由に、自分なりの方法で応援していた方が、楽しくてストレス発散になるのは間違い無いだろう。



しかしながら、この自由には、無意識のうちに“推し”の人生を制限することを厭わなくなるという危険性が潜んではいないか、ということを私は忘れずにいたい。

これまで当然かのように受け入れてきたことも、今一度考え直してみてはいかがだろうか。

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