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940円払って大股で帰って寝た

しばらく同居する友人がいない中、一人で呷った一昨日の薬は飛ばなかった。丸一日寝た昨日を潰しても倦怠感は収まらず、日が変わって今日の午前1時過ぎには訳も分からず日高屋に駆け込み、少なからぬ罪悪感と引き換えに麺・飯に加えレモンサワーをキメてふんぞり返り、940円払って大股で帰って寝た。中学時代からの習慣でこんな時でもカメラを持って外出してはいるのだが、多少撮るつもりで出たところで一度も取り出すことなく飯屋に直行し、食ったら食ったで満足して帰るのはままあることだ。何が言いたかったんだっけ?

で今日。正午になる前に目が覚め、完全に癖で屋上に出て煙草を吸う。ここへ来てもう1ヶ月になるが、ほとんど偶然にしろふらふらやって来たこの地は自分の性に合っていると感じつつある。下町らしい雰囲気の残る(…と、言ってみたかっただけ……)(……比較的のんびり、和やか、という意味で使っている……)(……ガチの下町風情はよく分かってない……)この街を行く人間の中には家すら持ってなさそうな人も一定数いて、そんな人間を受け入れているこの街でこそ俺は安心してみすぼらしい身なりで以てそこらをうろうろすることができるのだ。これがもし渋谷や池袋のど真ん中であったなら俺はたちまち自意識過剰って引きこもり、夜な夜な念仏を唱えて右隣左隣に迷惑をかける日々を送っていたことだろう…ホームレスとセフレかなんかは一度慣れると抜け出せないと言うが、それはおそらく「自分にはこれで充分なのだ」という安心感からくるものであり、それはみすぼらしい身なりで出歩くことに慣れたことから生まれた、実感のある推察である。だらしない服装でウロつくことは同時に(ファッションにおいて)俺は興味がない、向上心がない、ファッションというステージで戦う気は毛頭ないという意志表示でもあり、それが結局変に気負った視点=写真を撮らずにすむということに繋がらないだろうか。なんとか無理矢理言い訳してみましたがどうでしょうか。

これは批判ではなくバカの妄想、正当化するための言い訳として聞いてほしいんですけど、自分はこのみすぼらしいスタイルを、自分なりに意味のあるものとして選択しているんじゃないかと思うことがある。たとえばそれなりのコートやベレー帽かなんかでばっちり決めてカメラを首から下げ、「俺:風景などを映すものですどうぞ宜しく」感強めに撮るよりも私は、私にはですよ、誰も見向きもしない情けねー男が、誰も見向きもしないゴミみたいな場所をゴミみたいなカメラで撮ってるのに写真はなんかちょっとカッコいいみたいな、その方がさっきも言ったように気負わずにいられる上になんかこう、街に溶け込む見えざる敵かスパイかなんかみたいな気がして面白いと思うのです。(写真が面白くなきゃ何の意味もないけど)普段からゴミみたいなもんに惹かれている自分だからこそ、ゴミみたいな身なりをしてる方がよりゴミみたいなもんをイイ感じの写真に昇華できるだろうことは間違いないと思うのです…

昼過ぎに家を出た俺は習慣に基づいてアメ横の人混みを数枚撮り、イイ感じの路地裏を撮り、歩道橋から行き交う人を撮ったところで上野公園の骨董市でしばらく興奮したのち許可を得て珍妙なブツの数々を撮った。神社のそばには屋台がいくつもあってガキがチョコバナナをせがんでいた。また喫煙所のそばでは別のガキがそれっぽいものを咥えていたので驚いて二度見したところペコちゃんかなんかのポップキャンディだった。こんなどうでもいいことを書いてしまうくらい実際は何事もなく、あいまいに帰路についた俺は例によって食らうべき麺を買い、塩分を気にして申し訳程度のサラダを買うもサラダを食ったところでスープの塩分が中和されるわけではない現実に愕然とし、愕然とした拍子に手がすべって酒を買い、また少なからぬ罪悪感とともに帰ってこれを平らげるのである。そして食後の一服と称して一本を咥えながら屋上に出て…と書き付けるうちに俺の日常はなんてどうしようもないのだと感じつつ、ふと脇に捨てられた服の上に火種を落として経過を見るのである。すると珍しく、うまい具合に焦げ目が広がり始め、おっ これは写真に収めた方がいいかなと急いで部屋に戻ってカメラを持って屋上に引き返すも、火というのは案外儚いもので、その数十秒のうちに息も絶え絶えに燻っているのだ。情熱の象徴とされるだけあって、得てしてそういうものなのかなぁとまた無駄な詩的感情吹かした俺は捨てられた服ごと乱暴に火を踏み消すと、捨てられた服を踏みつけるとはなんと残酷で示唆に富んだ行為であろうかとまた少し酔っ払った頭で詩的感情吹かし、あわててこれを今ノートに書き付けるのである。いい天気です…

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