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数倍ぶっ飛んで2匹の動物になった

11/21
夜のトリップから続いて翌日、やつれた顔で朝も早よから上野国立博物館のミイラ展を観に行った。ミイラ取りがミイラになるどころか、用意周到な俺たちは前の晩のうちからミイラの顔そのものだった。展示された膨大な数のミイラの迫力はどれも圧巻で見飽きることがなかった。それらが/彼らが俺と同じように動き、生きていた人間であることがにわかに信じられず、その実感を得ようと俺は腕を組んでいつまでもじっと観た。実感を得るのは簡単なことではなかった、ミイラは今こうして俺と対峙しているが、彼らはこの時まで数百年も数千年も時を超えてきたのだ。こんなわけのわからん国まではるばるやってきて、確かに生きていた証を見せてくれているのだ。
印象に残ったのは親子のミイラだった。横たわる母親のお腹の上に、3歳ほどの子供のミイラが寄り添っていた。生まれてきた時そうだったように、死んでなお母親と共に形を残し続けていることにモーレツなロマンを感じた(語彙力無し)。そりゃ俺だってできるならそうありたいと思った。
ミイラ展に加えてせっかくなので通常展示場にも入ったものの、ミイラを見つめ尽くして疲弊していた俺は展示物もろくに観ずに壁のぼんやりした光ばかりを撮っていた。ただミイラに加えて視界をかすめたマンモスや原人や、地球から宇宙に至るまでがぼんやりした光の中で混ぜこぜになり、俺はなんだかすべてを理解したような気になっていた。俺が執拗にカメラを向けていた光は、諸行の無常を象徴しているらしかった(その時の俺の脳内で)。そんなぼんやりした実感を少しでもはっきりさせるために、俺はまた酒を飲んだ。

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すいませんが、呆れたことにトリップはまだ続きます。俺たちは間髪入れずにまた☒☒☒に手をつけたのだ。ミイラ展の時から降り続いた雨はしつこく続いており、ここ数ヶ月は東京駅から歩いて帰るのが定石になっていた我々はこれトリップしようにもどうしようかと困り果て、だったら今日はやめたらいいじゃないかという話で、それはそうなんだけどももう☒☒☒も買っちゃったし、とそわそわした結果今回は何ヶ月ぶりに家ん中でキメながらのんびり過ごそうということになった。結論から言いますと、その結果我々はいつもの数倍ぶっ飛んで2匹の動物になった。(太宰のアレじゃありません。念為)ともかくやろう まずは☒☒☒を飲もうと、ようやくその決断を下したのは22時を過ぎたころだった。後々の室内トリップの参考にすべく、今回の仏の垣間見えるようなぶっとび具合の理由を思いつく限りここに挙げてみようと思う。
一つ、俺はより良いトリップのために耳に心地よい刺激を与えようと、四六時中音楽を流し続けた。Brian Enoの"Apollo"から始まりSun Arawの"Beach Head"、Linda Perhacsの"Parallelograms"、単曲でFishmansやDJ Harrisonを乗り継いでしまいにはエンヤだの美空ひばりだの、リラックスして聴けるものはとにかく片っぱしから流した。流れる音楽についての知識を俺は逐一説明し、というか正確に言えばひけらかし、友人は友人でそれを興味深そうに聞いてくれ、俺はすこぶる調子が良くなってにやにやした。一つ、この夜は雨のうえに芯から冷え切っており、この冬初めての暖房を点けた。このじんわりした暖かさ、あるいは外気から隔絶されてここだけは安全なのだ、という安心感は想像以上のものであった。現にその酩酊の中に、災害によって瓦礫の山と化した外界から逃れ、狭くも安全なシェルターにいるような実感を見出したものだ。その理由としてもう一つ、部屋の灯りを消してキャンドルに火を点けたことも大きかっただろう。五感への心地よい刺激は良いトリップのために欠かせないものである……こうした作用の結果、朝が来ると俺たちは完全に人間をやめてしまい声も出さずに狭い部屋を歩き回った。操り人形のように手をぶらぶらさせ、あるいは屈伸運動を繰り返し、たまに我に返るとそんな自分たちが面白くなってくすくす笑った。俺たちは言葉を介すことなく、身振り手振りでコミュニケーションを取っているかのようだった。それからようやく雨も上がり、散歩に出ようとすると友人がおもむろにガムテープを取り出し、俺の口を塞ぐように貼り付けてしまった。野暮な言葉を封じるガムテープは、まさしく動物としての俺たちの象徴であった。俺は言葉を発することなく、テープを貼ったまま友人と自宅周辺を歩き回った。

ここ1週間、14日、16日、21日に23日とトリップ続きだった俺の頭は、すっかり独自の抽象的思考にとり憑かれていた。この記録にも何度も出てくるように、認識する事柄は何かと「象徴」として捉えられた。現実は、俺の知らないところで進んでいくようだった。眠るとも眠れない、曖昧な意識のすき間に画面から得た情報は頭の中で一体になった……俺の場合、トリップ続きで至る思考はきまって、虚構と現実の境目の無さが主題になる。俺たちがヨレて街をうろつく間に沢尻エリカは逮捕され、椎名林檎はMステで歌った。訳も分からず乗り込んだゆりかもめから見た台場周辺は、そんな彼女らの住む虚構の街のようだった。隅々まで手の行き届いた快適なサービス、ほこり一つない部屋、こまめに調節され共存する自然、しかしそこに現実味が映ることはなかった。それはまさしく、「作りものの平和」の形だった。そこで暮らす沢尻エリカや椎名林檎は虚構の象徴となり、下に引用するメモにもあるように、俺は沢尻エリカを不憫に思った。なんだか分かる気がしたのだ、芸能人としての自分のイメージと相対し、共存するのがいかに耐え難く、本来の自分を見失いそうになるかは察するに余りあると感じたのだ。以下はまたしても酒を飲んでぐらんぐらんになった朝に残したメモである。支離滅裂すぎてようわからん。

"……芸能人の間には昔から蔓延している。ピエールも田代も沢尻エリカも、でもしょうがねーと思う、彼らにとって何が現実で何が虚構かなんて俺たちには分からないが、この俺でさえ……
朝、家で目が覚めたら昼には銀座のギャラリーで真面目くさった顔して展示を見、そのまま池袋で友人と低俗な映画を観て話し、夜には☒☒☒をキメて東京駅から歩いて帰っているのだ。「おれは今ここで何をしてるんだ?」という瞬間、あるいは上野のホームで実家のような安心感、安定感、自己の内面探索、からの創作、おれは、おれは24時間前に何をしていた?全く別の場所、別の空間で別の人間と別のことをしていた。LoverとしゃれオツなRestaurantでFrenchを楽しむ俺と、友人と居酒屋で下ネタしりとりをする俺が全く同じ人間か?芸能人でない俺でさえ、相手や場所しだいで常に演技を求められているのだ。
ツイッターなんかだってそうだ。ひとつの面、タイムラインの上に全く別同士の存在、もはやここには人間であるとも限らないbotや会社の存在の情報が時系列というだけで全く雑多に並んでいやがる。俺たちはその中を絶えず泳いでいる。インターネットというのはそういう場所で、それは都市だって同じことだ。よくも正気を保っていられるな!
インターネット、ツイッターの雑多でランダムな感を、都市では肉体で嫌というほど浴びることができる。エレベーター、1階上がると真面目なオフィス、でもその上ではにぎやかなレストラン。さらにその上では盆栽教室ときてる!"めちゃくちゃだ"、だけど全くその通りだ。前にも言ったように、静けさと騒がしさ。暗闇と目もくらむような光の渦。ぎょっとするような無人駅、かと思えば押し殺されるような人混み。その両極端がほんの数十メートル、もっと言えば数メートルを挟んで同時に存在しているのだ。それはつまり、区切られているからだ。区切られているから生まれるコントラストがあるのだ。壁の向こうでは人が死んでいるかもしれないのだ。
ラーメン、時間の経過。昨日のように感じるがバイトは一昨日だ。2日過ぎた麺を温めて食う、午前6時すぎ、外はまだ薄暗い。なぜか歴代のWindowsの起動音を聴く。今の俺の感覚に合っているのだ。普段の自宅の感じとも違う。ここは家ではなくどこかのネットカフェか、一時的な避難場所だ。人目を逃れるための雨しのぎだ。このpcも古く、もう何年も使われていない、埃まみれの95だ。麺の味が分からなくなる、酔いが回ってくる。酒ががつがつ飲めるようになる、味が分からないからだ。俺はいつのまにか獣になっている、pcを操れる獣になっている。俺は本気でこのまま、北極に行ってみたいと思う。さっき聴いた、Brian Enoの作った起動音が北極に合いそうな気がするのだ。頼むよ!器に顔を近づけて麺をすする。麺を近づけて顔をすすっていたのかも。獣であることを再確認させられる。CCレモンで割ったゆずの9999が効く効く効く効く。そのせいで起動音が妙にノスタルジックに響いてくる。俺は酔狂を悪いとは思わん、なぜなら俺自身今まさに酔っ払っているからだ。これは向井秀徳の引用。数ヶ月吸わずに放っている、浅草で買った強すぎて吸えない煙草を吸う。味もへったくれもない、ただ今は「強い」という感覚だけが欲しいのだ。喉への刺激が欲しいし、それがまた俺をコーフンさせるのだ。起きたらお前は2階のマットでこの携帯とカメラを持って寝ているはず。メモ。……"

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