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ネパール人は心底疲れ果てているらしかった

9/21
17:00 カフェの壁際の席に座り、幻覚から立ち返りつつある頭を、身体を、俺にはまだ手があり、足があることをお前は本当に実感してるのか、と自分に問いかけ、これに答えず、例によってぼんやりしていると隣の男性がうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。眠っていることよりなにより、とてつもなく太った男性だ。今慣用句としてつい「舟を漕ぎ始めた」と書いたが、実際は前にも後ろにも動けないほど机と壁の間に挟まり、俯いた顔は直角の胴体に半分も埋まってしまっている。あれ大丈夫なのか、あんな体勢で気道は詰まってしまわないのか、という私の疑問に対し、即座にいびきが轟音をもって勢いよく応えた。見た通り聞いた通り、気道は全く、もう完全に詰まっているようだった。細い管から必死に空気を取り込もうとする、心配にさえなるが生物としての意志だけは感じる音が店じゅうに響きわたり、店員が苦笑を抑えようとして変な顔になった。男が膝の上に置いていた手をだらんと下ろし、なおも音圧を上げて壁と机を震わせた。これは嘘ですが、机のコーヒーカップまでもが皿と当たって音を立て、壁から絵画が落ちて男の頭をかすめた。しかし男はなおも起きない。ここはお前の家か?そしてさらには、辛うじて背中のシャツから見えた「goodman」の文字に大ボケをかまされ───これは本当だ───笑いや呆れを遥かに通り越した私は、この偶然の成せる技にひたすら感心するばかりだった。

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2日間降り続けた雨は夏夏夏した空気を押しやり、数日前に雨が上がると空気は一変して涼しくなった。肌寒く感じるほど気温が下がる夜のあいだに、私は夏が終わる象徴的な光景に出会った。相変らず夜勤に次ぐ夜勤のさなか、業者の運んできた荷物のワゴンを店の外に引っ張り出す時、道端の花壇で一輪のひまわりを見た。数日前とはうって変わって外の方が空気が冷たく、それが余計に夏の終わりを感じさせた。ひまわりはすっかり首を落として西を向き、冷たい風に晒されてゆらゆら揺れていた。その光景は仕事仕事した私の頭を一気に詩的感情させ、思わず私は携帯を取り出してひまわりを写真に収めた。店に戻ると相方のネパール人が私を呼び、今なら客もいないから一緒に煙草を吸おうと私を誘った。
仕事の隙間、ひんやりした空気の中で吸う煙草はうまかった。今日は早めに帰れるだろうかと考えていると、ネパール人がおもむろに口を開いた。今年の11月にビザの審査の結果が分かるらしいが、承認される望みが薄いらしいのだ。もしもパスできなければ私は国に帰らなければならないと彼は言った。どう返せばいいか分からず黙っていると、彼は言葉を続けた。
……もしかすると私にとっても帰るべき時期なのかもしれない。色んな店で働いてきたけど、ここの店長に対してももう不満がいっぱいだ。どれだけ言っても夜勤の辛さを分かってくれないばかりか仕事は増えていく一方だ。あなたもそうなのか分からないが、私の勤務時間からは勝手に時間を減らされたり、休憩時間を増やされたりもしている。だからあなたも、しっかり自分の勤務時間を把握していた方がいい。私は今月の給料が勤務時間と合っていなければ、もうこの店を辞めるつもりだ。私は毎月ネパールの家族に仕送りをしているが、そうでなくても生活は苦しいのだ。私たちのように留学生として日本に来る外国人は週に28時間しか働けないが、それを真面目に守っていたらとても暮らしてはいけない。
ネパールにいた頃の想像と、実際に来てからの現実は全く違っていた。日本に行けば、もっと楽に生活ができると思っていた……そう話すネパール人の顔を見ていて、私は余計に返す言葉が見つからなかった。彼曰く、祖国のネパールでは日本と比べれば物質的な豊かさこそ劣るが、半年働けばもう半年は休みっきりでも問題なく生活ができるらしい。……日本人は仕事中、堂々と携帯を見ることもない。「それは、本当は良いことのはずなんだけど」……とネパール人はまた苦笑した。夢を持ってやって来た日本で今、彼は心底疲れ果てているらしかった。

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今年の夏は過ぎ去るのが本当に早かった。あれだけ暑かったが、夏そのものを意識することはほとんど無かったと思う。かつて自分の中にあった夏に対する強い関心を思い出し、そこから失ったものは何だろうと考えてみるに、それは蝉の鳴き声に対する期待感ではなかったか。小学生や中学生の頃、夏になって初めて聞く蝉の声には心からわくわくしていたもんだが、高校生、大学生になるにつれて少しずつその衝動を忘れてきたように感じる。大人になるとはそういうことなんでしょうか。

とここまで話してきたのにそれから数日経って、この暑さはなんですか。
暑っ ふざけるな

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