小説 死んだ息子がいた

 息子が死んで三年ぐらい経った。あんまり突然のことだったので、息子の部屋もぜんぜん片付けられないまま今日まできてしまったのだけれども、そろそろ区切りをつけなければいけないだろう。そうしなければいつまでも成仏できないような気がしたからだ。
 よし、やろう、と意気込んで部屋に入った。けれども、埃っぽい、少しかび臭い部屋の中に、誰かが座っているのが見えた。窓からの逆光でよく見えなくて、まるでその背格好は息子のようじゃないか、と目を凝らしていると、本当に息子だった。 
「なんだ、いたんだ」と声をかけると、「まあ、たまにはね」と息子。なにがたまにはなのかわからなかった。
 どこからどう見ても生きている息子のようにしか見えなかったので、どうしたらよいのか扱いかねた。冬ごもりの熊がテレポートして、突如として我が家にやってきたみたいだった。
 それでとりあえず散歩に行くことにした。迷ったときは散歩なのだ。 
「最近はどうだ」と話しかけると「ぼちぼちだよ」と息子。なにがぼちぼちなのかはわからないけれども、それ以上突っこんではいけないような気がしたので聞かなかった。まあ、生きている間だって、そんなに息子の人生に深入りしたことはなかったので、ある意味平常運転だと言えた。
 最近オープンしたパン屋の前を通りかかるといい匂いがした。
「ここ、最近できたんだよ、結構うまいんだよ、知ってる?」と尋ねると「知らない、おれが死んだあとだから」と息子。 
 あ、死んだという自覚はあるんだ、と思った。いまの息子がどういう存在で、どういう理屈でうろちょろしているのかぜんぜんわからないので、本当に手探りで会話をしていくしかない。突っこんだ話をしてしまうと、その瞬間に「それはNGワードです」みたいに、息子がいまにも消えてしまいそうな気がしたから、いまいち踏みこんだ話もできないのだ。
「パン、買ってくか、うまいぞ」と言うと、「おれ、ごはん食べてきたからな」と息子。どこでなにを食ってきたのかはとても気になるけれども、やっぱり聞けないのでぐっと堪えた。
「まあいいから」とパン屋に入り、メロンパンを二つ購入し、「焼き立てだって」と一つ渡した。
 近所の公園について、椅子に座ってパンを食べることにした。
「体調崩したりはしてないか」と尋ねると、「まあまあだよ」と息子。相変わらず、なにがどうなのかわからないような回答しかしないやつだなと思う。「おまえははっきりとものを言わないことが最上のマナーですという教育でも受けてきたのか」と思ったけれども、この子を育てたのはわたしなので、あんまり強くも言えなかった。
 いつの間にかパンも食べてしまって、手持ち無沙汰になったので帰ることにした。 
「泊まってくのか」と聞くと、「うーん」と煮えきらない様子で息子。そんなことを言いつつも、どこかへ行く雰囲気も見られなかったから、たぶん泊まっていくのだろう。
 夜、眠る間際になって、ふと、きっと朝になれば、この子はもういなくなってしまうだろうな、という予感がして、わたしは部屋へ引き上げていく息子に声をかけた。
「なに」
「猫。タマの危篤のとき、おまえに声をかけなかったの、悪かったね」 
 息子は驚いたような顔をして、それからすぐ真顔になって、「なんだ、それをずっと言いたかったの」と聞いてきた。
 わたしは自分の心を振り返って、うん、そうだと思ったので、「うん」と言った。
 言ってしまうと、本当にそのことがすっと腑に落ちたような気がした。わたしはそんなことだけを、息子に言っておけなかったということだけを、ずっと気がかりで今日まできてしまったのだということに、今、気がついたのだ。
「あの時は怒ったし、今でもいい気分ではないけど、でも、いいよ、許すよ」と息子は言った。
「そうか」
「うん。なんだ。そんなことが、気がかりだったんだ」そう言って息子は気恥ずかしそうに笑った。
 わたしはなんだか憑き物が落ちたような気がした。もう彼に伝えておくことはなにもない、そんなふうに思えてきた。
「じゃ、おやすみ」と息子は言って、部屋の中へ入っていった。
「おやすみ」とわたしは言った。ふしぎと、ドアの閉まる音は聞こえなかった。きっと、最初からずっとドアは閉まったままだったんじゃないか、そんな気がしてきた。 
 それから、自分の部屋へ戻って眠った。同じ屋根の下に、息子が眠っているような気がするのは、ふしぎなことだった。とてもふしぎなことだった。朝になれば消えてしまうのだとしても、でも今は、その気持をじっと感じていたかった。

 朝がきた。目を覚まして、それから、昨日のことが夢のように思い出されてきて、「ああ」と思った。
 きっと、息子はもういないだろう。昨日の最後の言葉が、わたしたちの、永遠の別れだったのに違いない。
 わたしは寝ぼけ眼をこすりながら息子の部屋へ行った。ノックをして、ドアを開けると、少しかび臭い部屋の中、逆光に照らされて、息子のような背格好の誰かが座っていた。
 いや、息子だった。
 まだいたのだ。
「まだいたんだ」と思わず言ってしまうと、
「うん、おはよう」と息子。わたしは面食らった気持ちのまま、「おはよう」と返してから、
「おまえはわたしたちの息子だから、べつにいつまでだっていてもいいのだけれども」と言い淀む。
「でも、いつまでいるんだい?」
「まあ、ぼちぼちかな」と息子。
 はっきりものを言わないやつだな、と思った。