小説『たくさん愛されたぬいぐるみとちっとも愛されなかったぬいぐるみ』
たくさん愛されたぬいぐるみはいつもぼろぼろだったから、同じ部屋にいるけれどもちっとも愛されなかったせいか、いつも身ぎれいにしているぬいぐるみのことが羨ましくてしかたがない。
「ちぇっ。彼は汚れていなくて、擦り切れていなくて、鼻だって耳だってとれていない。ああ、ぼくにもあんな時代があったのだが、今となってはこんなに黄ばんでしまっているときたもんだ」
するとそれを聞いた愛されなかったぬいぐるみ、ふてくされながら、
「きみはぜいたくというものだよ。ぼくなんかちっとも愛されたことなどないというのに」と文句を言う。
「この家に来たとき、ぼくはたくさん愛を注いでもらえるものと思っていたのに、ぼくの買い主は二三回ぼくを抱きしめたと思ったら、それきりぼくには二度と見向きもしないんだよ」
愛されなかったぬいぐるみは長いため息をついた。
「ぼくはたったのその二三回、その二三回抱きしめられたという思い出だけにすがって、あとは捨てられてしまうまでの日々をおびえて過ごしているんだからね」
愛されなかったぬいぐるみはそんなふうに嘆くのだった。
たくさん愛されたぬいぐるみは、彼は哀れだなあと思い、自分はまだ恵まれているんだな、という気持ちで満足することにした。その中には、あんまり褒められたものではないけれども、愛されなかったぬいぐるみを見下しさえした気持ちもないのではないのだった。
「ぼくはまだましなほうなんだ」とたくさん愛されたぬいぐるみ。
「だから、愛されなかったぬいぐるみのきれいな姿を見て、ぼくは溜飲を下げるとしよう」
そう思うことにしたのだった。
ある日のこと。ぬいぐるみたちの家で大掃除が始まった。
大掃除はぬいぐるみたちにとっては恐怖の時間だ。いるものといらないものと分別されていく中で、ぬいぐるみたちはいつ自分が燃えるゴミの袋に詰めこまれてしまうのか気が気でなくなってしまうのだ。
ぬいぐるみたちの中には不安のあまり、お腹の中のビーズや木くずを吐いてしまう子だっているほどだった。
だが、たくさん愛されたぬいぐるみは心配していなかった。自分は愛されていたのだから、きっと捨てられることはないだろう。そう高をくくって安心していた。
だが、ふと、たくさん愛されたぬいぐるみは、自分に愛を注いでくれていた男の子がどこにもいないことに気がついた。
「おや、どこへ行ったのだろう。そういえば最近、彼を見ないな」
どうして気が付かなかったのだろう。男の子はこの四月から社会人になって、一人暮らしをはじめていたのだ。
「ああ、もうそんなに時間が流れたのか」
たくさん愛されたぬいぐるみは思った。
「でも、ぼくはたくさん愛されていたのだから、男の子がいなくなっていたとしても、きっと捨てられることはないだろう」
そのときだった。お母さんがどこかへ電話をかけはじめた。
「あんた、あのくまのぬいぐるみ、どうする? あんたがずっと大事にしていたぬいぐるみ。もう汚いから捨てちゃおうと思うんだけれども」
お母さんはたくさん愛されたぬいぐるみが聞き耳を立てているとも知らずにそんなことを言った。じつにぬけぬけと言った。
たくさん愛されたぬいぐるみはショックを受けた。あのお母さんが自分のことをそんなふうに思っていたなんて。
だがそれにもまして、電話口の向こうから聞こえてくる男の子の声が、たくさん愛されたぬいぐるみにさらに追い打ちをかけた。
『ああ、いいとも。ぼくもいい年だから、いつまでもぬいぐるみにかまっているわけにはいかないからね』
なんだって?
たくさん愛されたぬいぐるみは驚愕した。世界がひっくり返ってしまったのじゃないかと思った。男の子の言葉は呪いのように、たくさん愛されたぬいぐるみにまとわりついた。体中がぞくぞくしてきた。
かつてたくさん愛されたぬいぐるみに、溢れんばかりの愛を注いでくれた男の子、たくさん愛されたぬいぐるみが、こんなふうにまで擦り切れてしまう、その原因を作った男の子は、いとも簡単にそう言ってのけたのだった。
たくさん愛されたぬいぐるみは震えが止まらなくなった。体の中から悪寒が走り、そうしてとうとう、お腹の中のビーズをぽろぽろっと戻してしまった。
なんだって。ぼくが捨てられてしまう?
たくさん愛されたぬいぐるみは現実を受け止めきれなかった。何度も何度もひきつけを起こして、そのたびにきれいな白いビーズを吐き出してしまうのだった。
たくさん愛されたぬいぐるみは心の中で叫んだ。お願い。もう二度と抱きしめられなくたって構わない。この部屋に居続けられるんだったら、ぼくは二度ときみから触れられなくたって構わない。だからお願い、ぼくを捨てるのだけはやめておくれ。
けれどももはやどうにもならなかった。たくさん愛されたぬいぐるみのほうにお母さんが近づいてきた。
「もう汚くなっちゃったからね」とお母さん。
「さようなら」
たくさん愛されたぬいぐるみは片方だけになった耳をむんずと掴まれると、燃えるごみの袋の中にぽいっと捨てられてしまったのだった。
「ああ、なんてことだ。ぼくが捨てられてしまうなんて」
たくさん愛されたぬいぐるみは嘆いた。燃えるごみの袋の中でじたばたともがいた。それから自分を捨てた男の子のことを一生懸命呪った。
どんなに愛していてくれたって、いま、ぼくが捨てられるのを止めてくれないのならば、そんなのはなにもなかったのといっしょだ。どうしてぼくを新しいうおうちに連れて行ってくれなかったのだろう。どうしてぼくを見捨ててしまったのだろう。
どうして人間はおとなになると、ぼくたちを捨ててしまうのだろう?
たくさん愛されたぬいぐるみは嘆いた。それから燃えるごみの半透明の袋の中から部屋を見回した。
ぼくの部屋、ぼくの一生を過ごした部屋。楽しい思い出しかなかった部屋なのに、それがこんなに遠く感じられるなんて。
たくさん愛されたぬいぐるみは信じられなかった。もうすぐ自分から遠く離れていってしまうこの光景のすべてが、嘘のように思えてくるのだった。
そのときだった。たくさん愛されたぬいぐるみのほうに、愛されなかったぬいぐるみが近づいてきた。
なんだなんだ、とたくさん愛されたぬいぐるみは身構えた。
きっとぼくのことを笑いに来たのだろう。そうに決まっている。たくさん愛されたぬいぐるみは、愛されなかったぬいぐるみのことを見下していたのだから、そんなふうに考えるのはごく自然のことだった。
だが、そうではなかった。愛されなぬかったぬいぐるみは、たくさん愛されたぬいぐるみのほうまで近づいてくると、いつくしむかのように抱きしめたのだった。
たくさん愛されたぬいぐるみははっとなった。そうして、一瞬、安堵してしまったことを後悔した。そのことを恥じるように、たくさん愛されたぬいぐるみは、愛されなかったぬいぐるみの手を押し戻し、叫んだ。
「やめてくれ。そんなのはなんの代わりにもならないよ」
悔しさと悲しさから、たくさん愛されたぬいぐるみは憎まれ口を叩いた。
「一度だって誰からも愛されなかったぬいぐるみが、誰かに愛を与えられるわけはないんだ。同情なんてやめてくれ。みっともないよ」
たくさん愛されたぬいぐるみは言った。だが愛されなかったぬいぐるみは、振り払われた腕を再度つかまえると、たくさん愛されたぬいぐるみをもう一度抱きしめた。
「どうしてそんなことをするんだ。ぼくを哀れんでいるんだろう。見下しているんだろう。ぼくだけ捨てられてしまうことに、いい気持でいるんだろう。やめてくれ」
けれどもどうしたことか、たくさん愛されたぬいぐるみはちっとも嫌な気持ちがしなかった。それどころか、愛されなかったぬいぐるみに抱きしめられていればいるほど、たくさん愛されたぬいぐるみは、自分が落ち着いていくのを感じていたのだった。
徐々に、たくさん愛されたぬいぐるみは、自分が間違っていたのだと気がついてきた。
とうとう、たくさん愛されたぬいぐるみは、こらえていた気持ちが吹き出してくるのをとどめることができなくなった。たくさん愛されたぬいぐるみは涙を流しながら、
「ごめんなさい」と言った。
「ひどいことを言ってごめんなさい」と言った。
たくさん愛されたぬいぐるみは、目から大粒のビーズをぽろぽろとこぼした。
「いいんだよ」と愛されなかったぬいぐるみは言った。
「ごめんよ、きみにひどいことを言ってごめんよ」
愛されなかったぬいぐるみは抱きしめることをやめなかった。たくさん愛されたぬいぐるみは、愛されなかったぬいぐるみの腕の中でおいおいと声を上げて泣いた。
「ぼくが愛されていたことは嘘だったの? みんななにもかもなくなってしまうの?」
「そんなことはないよ」
愛されなかったぬいぐるみは言った。
「きみが愛されていたことは、きっとなくなったりはしないんだよ」
それを聞いてたくさん愛されたぬいぐるみの心は少しだけ穏やかになった。本当に、ちょっとだけだったけれども、でもそれはたくさん愛されたぬいぐるみを落ち着かせるのには十分なくらいだった。
たくさん愛されたぬいぐるみは自分が一生を過ごした家のことを見つめていた。男の子が伸びていく背を測った柱も、お母さんに怒られたときにいつも隠れて泣いていた階段の下の空間も、夏の夜、冷たい床の上にタオルケットを敷いて、たくさん愛されたぬいぐるみといっしょに眠った廊下も、朝になれば消えてしまう世界のことを。いつまでも、いつまでも見つめていた。
朝になった。ゴミの収集の時間がきた。お母さんは家の前のゴミ置き場に持っていこうと、たくさん愛されたぬいぐるみの入った袋をむんずと掴んだ。
お別れだった。たくさん愛されたぬいぐるみは、愛されなかったぬいぐるみのほうを見ながら「もしあの男の子が帰ってきたら、ぼくは幸せだったと、きみに愛されて幸せだったと言っていたって、そういう気持ちで見つめてあげてほしいんだ」
「わかったよ」愛されなかったぬいぐるみは哀しそうに笑った。
「ありがとう、さようなら。きみもどうか元気でね」とたくさん愛されたぬいぐるみは言った。
たくさん愛されたぬいぐるみの前で、彼が一生を過ごした家のドアが閉じられた。そうして二度と、開くことはなかった。
何日かして、男の子から電話がかかってきた。
『お母さん、この間はああ言ったけど、やっぱりあのぬいぐるみは捨てないでとっておいてくれないかな』
「あんた、なにを言ってるの」
お母さんは言った。
「あんなの、とっくに捨てちゃったわよ」
男の子はショックを受けた。けれども、それをお母さんに悟られないように取り繕いながら、
『そっか』
と一言、電話の向こうでつぶやいた。
終わり