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「死にたいけど、生きたい」 〜あなたを内側から攻撃する声の正体〜


しわーす(12月の挨拶)


年の瀬だね。
今年ももう10日近くだとおもうと、信じられない。


今年は、ほんとうに色んなことがあって、とにかく感情の起伏が激しくて、我ながら「なんて1年だったんだろう」とおもうよ。(遠い目)
noteをはじめてもうすぐ1年になるな。


今年は、大切なひとたちの人生の劇的な変化に、擦り切れそうな勢いで関わりきることができたな(笑)
そこは、素直にじぶんを褒めてあげたい。(俺よくやった。逃げなかった。)
そこから得た数えきれない学びや気づきを、なるべく大事に言葉にしてみて、それをみんなが見てくれている。
この、「生き様」を見てくれている感じ。ありがたいよね。 


さて、きょう話したいのは、「死にたいけど、生きたい」という感情について。


ちょっとまえも、大事なひとがこの感情の渦の真っ只中にいて、まあまあ大変だったんだけど(笑)、それでも少しずつ前に進んでいる。尊いよね。
(月の前半の更新が滞ってた言い訳にさせてもらうねw)


さて、この「死にたいけど、生きたい」が、どうして起こるのか。

それは、あなたの自我の中心に、「あなたを攻撃する他者の声」をインストールしてしまっているからなんだ。それが、あなたの心のど真ん中に居座っている。
その声が、絶えずあなたのことを攻撃している。


「おまえなんかだめだ」
「おまえが、幸せになれるわけがない」
「うまくいかないのは、ぜんぶおまえのせいだ」


あなたが一番傷つきやすいときに、「あなた」そのものの存在を受容せずに、こういうことばを使ってあなたを傷つけた他者がいる。
その他者がつくりあげた「ダメなあなた」像が、ほんとうの「あなた」を押しのけて、あなたが本来いるべき居場所にずっと居座っている。

要は、あなたを傷つけてきた大人たちの声を、じぶんの自我として内在化させてしまっているのね。


ちょっと難しいかもしれないんだけど、あなたを受け容れずにないがしろにしてきた誰かの人格の声ばかりが、暴力的にインストールされてしまっていて、本来のじぶんの声が聴こえないくらいにすみっこにおいやられてしまっている。

尊敬する精神科医の崔先生はそれを「ヨソモノ自己」と呼んでいる。
ヨソモノが、あなたのこころのいちばん脆い部分に居座って、「おまえはダメだ」と言い続けながら、内側から暴れている。これが自己攻撃状態ね。

でもね、その声は「ほんとうの」あなた自身のものではないんだよね。


じぶんを傷つけるような行為をすると安心する、という心理がある。


冒頭の子は、「不幸に、片足だけ突っ込んでいたいんです」と言っていた。
「そっちのほうが安心する」んだと。


ときおりじぶんをフルボッコにしないと生きていてはいけないような気がしてしまうのは、この「ヨソモノ自己」による内面からの攻撃(自己攻撃)のせいだ。


内なるじぶんの内面からの攻撃の苦痛は、尋常ではない。
正体がわからないし、延々と終わらない。
この先の見えないしんどさから逃れられるなら、もうなんでもいい!というう気になるほど、すさまじいもの。


だから、その苦しみに「別の説明」をつけようとする。


じぶんを直接切りつけたり、じぶんを傷つけるような営みに従事したり、じぶんを傷つける相手に無意識に惹かれてしまったり関係を持ったりする。

そうして、つらすぎる内側からの攻撃を、目に見える「外部からの攻撃」ということにして、納得できる痛みに置き換えようとする。

なぜなら、そっちのほうが、はるかにマシだからだ。

こういうつらい外部からの攻撃があるから、じぶんはいまこんなに苦しいのだと。
正体がつかめない痛みほど、苦しいものはないからね。



でもね、じぶんを攻撃する声だけじゃないはずなんだ。


ソトから暴力的にインストールされてしまった「あなたを攻撃する自己」が占拠して大騒ぎしているけど、もともとあなたの中あったはずのほんとうの自己が、絶対に存在している。


消え入りそうなか細い声で、必死に主張している。

「おまえなんか死んでしまえ」という大声にまぎれて
「ほんとうは死にたくない」という小さい声で叫んでいる。

「おまえは絶対に幸せになれない」という大声にまぎれて
「わたしだって、ほんとうは幸せになりたい」という小さい声が聞こえるはず。


どっちがほんとうの「わたし」の声なのか。
どっちの声に、耳を傾けるべきなのか。
あなたを攻撃するあなたの声は、ほんとうは誰の声なのか。

それを、考えてみてほしい。


冒頭の子はね、じぶんを虐待した親の「できそこないのくせに」「おまえなんてしんじまえ」っていう声を内在化させてしまって、ずっと苦しんでいた。
それで、ずっとじぶんを傷つけるような行為をせざるをえなかった。
そうでないと、生きてこれなかった。


でも、死にたいくらいの苦しみの中で、大きな怖い声にまぎれて、小さなじぶん自身の「まだ生きていたい」っていう声が聴こえているのをちゃんと自覚していたんだ。

「どっちの声を聴いてあげたい?」って聴いたら、「じぶん」って答えてくれた。

ほんとうに強いよね。
ひとの根源的な生きる力とか、生き抜く知性というのは、こうやって発揮されるんだなと感じたよ。




で、ちょっと話はズレるんだけど、この構図って、漫画とかでよくある、自分の身体を占拠しようとする妖怪や魔物と、内なる自己の戦いに似てる気がしている。

(参考事例:ヒュンケル vs ミストバーン)



じぶんが苦しんでいるのはなぜか。
その「構図」に気づく、というのは、このマガジンでやりたいことのひとつね。

人間には、じぶんに起こっていることを第三者視点で捉えて、理性的に対処する「メタ認知能力」がある。
構図に気づけば、対処可能性がでてくる。


もしかしたら、じぶんを内側から攻撃するこの声は、じぶんではなく、「ヨソモノ」の声なのかもしれない、と考えてみる。
だとすれば、「ホンモノ」の声に味方をしてあげられるようになればいいと考えられないか。


このマガジンで度々触れている

「じぶんの感情をとりもどす」
「じぶんの感情で生きる」


という行為は、あなた自身の小さな声を、すこしずつ大きくしていくことにつながっていく。


そして、あなたを否定しない誰かとの信頼を築き、受容されていく経験は、その大切な誰かとの間にできた暖かいあなたの人格を、内在化させることができる。
それは、ホンモノのあなたに栄養を与えてくれる。

そうやってホンモノを育てていくのを続けていくと、ヨソモノの大きな声に対して、小さなあなたのホンモノの声が、拮抗するようになっていくんだ。
そうすれば、反射的にじぶん自身を傷つけるような行動に及ぶ確率は減っていくよ。


いま絶賛回復中の別の子ときのう電話で話したんだけど

「いまでも死にたくはなるけど、なんか、最近はじぶんで対処できるようになったんだよね」

って言ってくれた。
対処能力があがっていくんだ。すごいことだよね。



ある意味、これは育成ゲーみたいなものなんじゃないか。
ニセモノに乗っ取られたあなたの心を、取り戻すために栄養を与えて少しずつ勢力を蓄えていくゲーム。
ミストバーンに乗っ取られている小さなヒュンケルを、育てていくゲーム。


サクちゃんの言ってる「脳内鬼コーチ vs 親友問題」も、根っこは同じだとおもう。


ホンモノのじぶんを栄養する行為がどういうものかっていうのは、このマガジンの中でずーっと語られていることね。


なんか、今日は言いたいことがなんとなくうまく書けた気がするから、マガジンに入れようと思ったけど、しばらく無料で公開しとこうかなとおもった。
マガジンの方には、これとは全然関係ないサクちゃんとのおしゃべりを入れておくね。


「死にたいけど、生きたい」
「苦しみたいけど、楽になりたい」


そういう矛盾を抱えて苦しんだことがあるひとに、少しでも多く届いたらいいな。


それじゃ、今日はこのへんで。
またね。



ふだんはこういうはなしはこのマガジンでやってます。
よかったらのぞきにきてね。


ゆうすけ

いつも読んでくれてありがとうございます。 文章を読んでもらって、サポートをいただけることは本当に嬉しいです。