「競争」の先に幸せがあるのか


「競争」とか「競争的な価値観」との距離感を最近よく考えている。


ぼくらの人生はある意味、単一的な価値観の中で繰り広げられる「レース」のような一面がある。それで、みんなが目指す山の頂上からの距離で自分の立ち位置を確認して一喜一憂したり、そこから外れたものを「脱落者」とみなすことで心の安定を保とうとしたり。

「勝ち組」「負け組」といったことばに代表されるような、こうした競争的な価値観とかキャリア観を、友人である佐伯ポインティは「チャンピオンズ・リーグ」と呼んでいた。

この「チャンピオンズ・リーグ」は、ぼくらの思考を占拠して、「負けたくない」とか「落ちぶれたくない」というような感情を湧き起こさせる。それがぼくらにプレッシャーを与え、よい仕事をするきっかけをくれたり、やれやれと言いながらも働くエンジンを与えてくれる一面もある。

しかし、それをずっと続けていくことの先に、ほんとうの幸せがあるのかなあと思うようになってきた。「これって、いったいどこまで続いていくんだろうか」という気持ちだ。


もやもやとした思いにヒントを与えてくれたのが、経済学者のロバート・フランクさんが言っていた「地位財」と「非地位財」という言葉だ。

フランクさんは、職位や学歴などの社会的地位、年収や家・クルマなどの物的財など、周囲との比較で満足を得るものを「地位財」とよび、自由や愛情、良好な環境や帰属意識など、周囲との比較とは関係なく幸せが得られるものを「非地位財」と定義した。

そして、地位財がもたらす幸福感は非地位財と比べて長続きしないということを明らかにした。たとえば、35年のローンでマイホームを建てて感じる幸福度は1年に満たないと言われているのだけど、それってなんだかとても割に合わない気がする。


要は、競争に勝つことで得られるものだけでは、ぼくらは本質的に幸せになれなさそう、ということだ。なぜなら、相対的優位は永遠に続かない。イチロー選手のような超一流アスリートだって、ずっと勝ち続けることは出来ない。

ほとんど全てのひとは、人生のどこかのタイミングでかならず「弱者」の側にまわることを強いられる。じゃあ、その立場になったとき、ぼくらが幸せであることは出来ないのだろうか。


そう考えると、ほんとうの意味でぼくらの人生を豊かにするのは「非地位財」だ。そのなかでも、最も重要で、最も得がたいものは、「愛情」や「所属感」を得られる「つながり」なのではないかとおもっている。

たとえ自分が弱くても、競争に勝ちつづけていなくても、頑張っていなくても、機能的な価値を出していなくても、離れていかないひとがいる。ここにいてもいいよと言ってもらえる。それ以上に豊かなことがあるだろうか。ほんとうはみんな、そういうつながりを求めているんじゃないか。


非地位財的な安定や癒しを欲しているにもかかわらず、その不足感を埋めるために、地位財を得るためのピラミッドの中で死ぬほどの努力に身を捧げているひとが少なからずいる。

なんせ、競争に勝て!という欲望は強烈だ。
それは、ぼくらヒトという動物が遺伝子を残すために、他の個体を圧倒して選ばれることが必要だからだ。本能として何万年も前から脳にプリインストールされている。
でもそれは、あくまでも、「脳のやつが勝手に言っていることのひとつ」だ。

おなじように、ぼくらはコミュニティに所属しなければ、種を残すことは出来ない。つながりたいという欲求もまた、ぼくらの脳が求めているもののひとつだということ。どっちも抗うことが困難な欲求であることをまず自覚しようとおもった。


ただ、「競争の世界から完全に降りる」というのも難しそうだ。生活を成り立たせるためには、職業人としての競争優位性を確立することは必要だろうし、完全に競争的な価値観からフリーにならなくてもいいんじゃないかなーともおもっている。

ぼくは競争はあまり好きではない。気を張って疲れちゃうからだ。
それでも、スプラトゥーンを500時間もプレイしていられるのは、やっぱり勝負や勝負が楽しいとおもっているからだ。そこの快楽は享受してるなあと認めつつ、ただ、無意識に競争的価値観に占拠されたものの見方はやめていければいいのかなあとおもっている。

大事なのは、地位財と非地位財の両者が、いちばんじぶんにとって「気持ちよく」バランスする位置をみつけることなんじゃないか。地位財を得るための努力と、非地位財を得るための努力の方向性はまったくちがうし、最適なバランスもひとによってだいぶ違ってくるだろう。そのへんを自覚してじぶんの内なる声に耳を傾けながら、ポートフォリオを微調整していけばいいのではないか。

例えるなら、みんなが登っている大きな山のてっぺんを傍目で見据えながらも、足元に自分だけが楽しんで遊ぶための小さな砂山をつくるイメージだ。


大きな山(競争的な価値観)からは、どのくらい距離を取るかは個人の好みにまかせればいいと思うけど、山のてっぺんからの距離ですべてが決まるという価値観だと、一握りの人が一時的にしか幸せにはなれないことは確実だろう。

それにうすうす感づいているひとたちが、「がんばらなくても、ここにいてもいいよ」と言ってくれるひととの関係だったり、こころから安心できる居場所(コミュニティ)を求めるようになってきているように感じている。


ひとのことを本当の意味で豊かにしてくれるのはおそらく、だれかの「非地位財」になれるひとだ。言い換えれば、「安心」とか、「居場所」とか、そういうものを与えることができる技術のあるひと。

そういうひとが、これからあらゆるところで求められていくだろうとおもっている。願わくば、ぼく自身もそういう技術を身につけられたら、とても幸せになりやすいのだろうなと考えている。


まあ、これがすごい難しいんだけどね。


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Dr. ゆうすけ

「安心の居場所」「コミュニティ」

自己肯定感の源泉となる「安心の居場所」や、幸福の手段としての「コミュニティ」について。 競争で勝利することや、成功を追いつづけることが幸せに決してつながらないことに多くのひとが気づきだしている中で、幸せになる手段としてのコミュニティや、それをつくるために必要な幸福論・哲学...
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コメント3件

‪20半ばですが、聞き役に徹しすぎてどうにも自分のことを話す勇気がでません。聞くよと言ってくれる友達の言葉にすら、時間を割いてもらうことが申し訳なく言うのを躊躇ってしまいます。でも出さないとそろそろ自分がダメになるなとも気付き始めました。専門家を頼るべきなのでしょうか、こちらにコメント突然すみません‬、
ありがとうございます。
まずはご自身がリスクを感じにくいところで、本音を出せるところを確保できればいいですね。
そのときに専門家を頼るのはよいとおもいます。聴くプロとしてはカウンセラーがおすすめだとおもいます。
cotreeさんなど、信頼できるオンラインカウンセリングサービスなどもあります。

「第三者に自分の言いにくいことをはなす」という行為自体に慣れることで、得られるものも大きいかとおもいます。
お返事頂けると思っておらず、独り言のように書き連ねてしまいました。削除頂いても大丈夫です。すみません。ありがとうございます。cotreeというネットワークは知らなかったので調べてみようとおもいます^^ ありがとうございます。
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