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【歴史探訪】牛窓の南の海で生まれた大伯皇女(おおくのひめみこ)

 昔の牛窓町立病院が、近年、「牛窓テレモーク」という複合施設に生まれ変わりました。カフェやスイーツ屋さん、スタジオ等があり、イベントも催されています。私たち昭和40年代生まれの牛窓っ子は、ほぼこの病院で誕生したのですから、海風とともに人が訪れ、リラックスした時間を過ごしている様子は、嬉しく、ちょっぴり誇らしくもあります。ソファに座って寛げば、スイーツの向こうに穏やかな海景色。今回はこの牛窓の南の海で生まれた大伯皇女≪おおくのひめみこ≫のお話です。
 大伯皇女は661年、この牛窓の南に広がる海域の船の上で生まれました。制度として確立された伊勢の斎宮としては”初代”というほどの高貴な姫が、なぜ、瀬戸内海に浮かぶ船の中で生まれたのでしょうか?
 ときは少しさかのぼって645年、ムシコロスという語呂でおなじみの大化の改新。私たちは学校で「中大兄《なかのおおえ》皇子・後の天智天皇は国政を改革した」いわばヒーローと習いました。しかし、少し調べると中大兄皇子の人物像はいわゆる偉人とは違うような……。『日本書紀』のような正史といえども、権力者の都合や書記官の心情によって内容はコントロールされますが、何しろ当時を知る貴重な手がかり。まずは極力、史実に絞って、簡略に拾い上げると、

642年、舒明天皇が崩御。後継者は複数人いるが、49歳の皇后・宝皇女が即位し、第35代皇極《こうぎょく》天皇となる。
645年、皇極天皇の息子である中大兄皇子が蘇我入鹿を誅殺(乙巳の変)。翌日、天皇は中大兄に譲位をしようとする。しかし、中大兄は辞退し、叔父の軽王子を推薦。その軽王子は3度辞退し、古人大兄皇子を推薦するも、古人は辞退して出家。結果、軽王子が史上初の譲位(生前退位による即位)により、第36代孝徳天皇となる。中大兄は皇太子となる。


乙巳(いっし)の変

645年、中大兄の同母妹間人《はしひと》皇女が、孝徳天皇(叔父)の皇后となる。
651年、難波に新しく宮が作られる。
653年、中大兄は前天皇皇極(母)、間人皇后(妹)、他を連れて難波宮を去り、公卿や官吏が従う。
654年、孝徳天皇、難波にて崩御。
655年、前天皇皇極が重祚し、第37代斉明天皇となる。

 どうやら、孝徳天皇は難波宮で失意のどん底にいたようで、実質権力者である甥中大兄による「置いてけぼり」実力行使が原因の死ととれます。そしてここにロマンスというか愛憎劇、詠まれた歌から「実は、中大兄と間人は恋仲」という説があったりします。当時は母が違えば良かったのですが、さすがに母が同じだとタブー。中臣鎌足から「今は即位はやめといたほうが、だって、ほら……」と進言されていたとかいないとか。なかなか自分が即位しなかったことから妙な憶測をあれこれと呼んでしまうのも、中大兄の自業自得といったところ。
 さて、もう一人の重要人物は弟の大海人《おおあま》皇子。(※大海人の生年が不明なため、どちらが年長かについて諸説あります)中大兄・後の天智天皇が崩御した後に天智天皇の息子大友皇子と戦い(壬申の乱)、大海人は皇位を得た勝者となったため、敗者の大友皇子に同情が移り気味ですが……。なんたって、中大兄と大海人は歴史的大三角関係ですから私は大海人に同情しますね。
 【歴史的大三角関係とは】歌人として絶大なパワーを持つ額田王《ぬかたのおおきみ》は大海人皇子の妃。子供もいる。にもかかわらず、中大兄は額田を自分の妃にと大海人に強要。額田と大海人は堂々と未練の心を歌に詠んだ。(紫根の話で必ず出てくる「あかねさす むらさきのゆき しめのゆき 
 のもりはみずや きみがそでふる」など)
 【骨肉の争いの元・4重の叔父姪婚とは】中大兄は娘4人を大海人の妃にする。一人は後の持統天皇、そして持統と同じ母を持つ大田皇女も。この大田皇女が大伯皇女の母です。
 中大兄と大海人の兄弟は婚姻により血のつながりが濃縮されていくので、もはや、そこに愛があるのか?それは恋愛なのか情愛なのか、その裏返しの愛憎なのか、あるいは智略なのか分からなくなってきます。問題は、そう、この頃はアジアの情勢が非常に緊迫をしていたところにあります。
660年、百済が唐と新羅に攻められ、日本にいた百済の王子扶余豊璋《ふよほうしょう》は帰国する。
661年、百済救援のため、中大兄は九州に赴く。朝倉宮を作る。
 ポイントはここ。負け戦とわかりながら、中大兄は67歳の母斉明天皇を連れて九州に向かうのです。中大兄には、叔父孝徳天皇を難波宮に残して全員連れて板蓋宮に帰った、ある意味「前科」がありますよね。周りは自発的か、恐れてなのか、とにかく妃達も含め、大船団は1月6日に難波津から九州に向けて出港しました。今の暦では2月10日、寒いですよ……それでも身重の大田皇女も同行し、2日後、牛窓の南の海域で出産しました。それが大伯皇女です。無事に生まれてきて、本当に良かったですね。そしてこの後、一行は真備町で二万人!もの軍士を集めています。(地名「二万」の由来として伝説あり。斉明天皇の母は吉備姫王ですから、なんらかの縁がありそうです。)吉備の力は大きかったようですね。一行は潮待ち・風待ちをして、やっと3月に九州那大津《なのおおつ》につき、5月に宮を作りました。しかし斉明天皇は流行病で7月崩御。年齢も年齢ですが、心労で免疫力が低下してしまったのではないでしょうか。中大兄は身重の女性、高齢の母、叔父、周りの人をなんと思っているのか!?という憤りがフツフツと湧いてきます。なにはともあれさすがに天皇がお隠れあそばしたため、出兵は中断します。663年大田はもう一人大津皇子を産みますが、戦は大敗。数年後に大田も亡くなってしまいます。
 さて、この大伯皇女の名前≪おおく≫について、少し調べてみましょう。
 このころは氏姓制度で「国造≪くにのみやつこ≫」という地方を治める官職がありました。話が少しそれますが、部民制という職能集団で戸籍を管理する方法も残っており、例えば機織りをする渡来人は「服部」≪はとりべ≫と呼ばれ、長船町をはじめ総社市や真備町、倉敷市で地名として伝えられています。「オオク」に話を戻すと、和気町の古墳からは「大久」、邑久郡内から出土した須恵器には「大〇(人偏に久)」とあるなど今の瀬戸内市よりずっと広い範囲が「オオク」「オホク」「オク」などと呼ばれていたといわれています。また、現在の岡山市には「邑久郷」「大伯」という地名もありますね。邑久郡を治めていた大伯国造、その一族こそ吉備海部直《きびのあまのあたい》であり、牛窓の前方後円墳は彼らが葬られたもの、そして、6世紀後半から7世紀後半にかけて、吉備海部直の下の郡司クラスの家族が葬られたのが牛窓オリーブ園内第二駐車場の下側にある阿弥陀山38号墳ではないかと推定されています。大伯皇女が生まれたのが661年ですから、古墳の作られた時期と重なっていますので、ここに葬られた人達の中には「なんでも、戦に行く船の中で、えらいお妃さんがお姫さんを産んだそうな」「まあ、こんな寒いのに?!お妃さんも大変だねえ。」と噂話していた人もいたかもしれません。もっと言えば、乳母に召された人もいたかも?と言うのは、大伯の父の大海人ですが、そもそも大海≪おおみ≫氏(凡海氏)の乳母に育てられたから「大海人」と呼ばれたとか。さらに言えば、大海氏の本拠地の舞鶴にはなんと牛窓と同じ「大浦」だけでなく「志楽《しらく》郷」があり、牛窓の師楽《しらく》という地区も朝鮮の新羅と関係がある……大海人自身も吉備海部直と何かつながりがあるかもという説もあるくらいなのです。
 余談になりますが、尾張国の海部≪あま≫郡とも関係がありそうで、興味深いですね。なんでも邑久町尾張「オハリ」というのは第7代孝霊天皇の頃に大地震があって、陥没して海に通じる大沼になり、北岸に「墾る≪はる≫」から来た「小治≪おはり≫城」があったからと「城稲荷大明神縁起」にあるそうです。
 それから、大陸から攻め込まれまいと中大兄が置いた防人《さきもり》、水城《みずき》とともに、瀬戸内海にはこのころ作られた山城《やまじろ》があります。ひとつは讃岐の屋嶋城《やしまのき》。もう一つは総社の鬼の城《きのじょう》で、吉備の中心地、そこには前述の服部地区もあります。いろいろつながりますね。
 さて、大伯皇女は長じて、父大海人の即位(第40代天武天皇)の際に、初代伊勢斎宮となりました。九州で生まれた二つ違いの弟大津皇子には、血縁の濃い婚姻の重なりにより、父(大海人)と母方の祖父(中大兄)は同じで母方が違うライバル皇子だらけ。幼いころに母が亡くなった大津には後ろ盾がありません。大津にとって唯一の頼みの姉大伯は斎宮。でも遠く離れた伊勢にいて、会うことすらかないません。悲劇の種は、大津皇子が人物的に優れていたこと。叔母でもある持統天皇にとっては、息子の邪魔になる脅威の存在。大津は姉に逢いたいという気持ちを抑えることができず、禁忌を犯した謀反の罪に問われて、すぐさま磐余の池で処刑されてしまうのです。そこで姉大伯が詠んだ歌が、萬葉集の
 ふたりいけど いきすぎがたき あきやまを
    いかにかきみが ひとりこゆらむ
 私はずっと昔から、この歌が「弟を思いやる姉の心」に思えなくて。これは悲痛な相聞歌(恋の歌)ではないでしょうか。禁断の恋ですけど……。
 大伯皇女と大津皇子に興味をお持ちになった方には、折口信夫《おりぐちしのぶ》の「死者の書」ををお勧めします。 ※青空文庫にもあります。

 参考文献:『邑久町史』、『日本書紀』、等
 監修:金谷芳寛、村上岳
 イラスト:ダ・鳥獣戯画、
 イラストAC宇佐吉さん
 文と写真:広報室 田村美紀


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