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【歴史探訪】不死の薬が在るという、よもぎ島を目指して 今川了俊の歌碑inペンション村

 西脇に至る途中、ペンション村の岬にも歌碑があります。
 いく薬 とらましものを 蓬《よもぎ》島
    およぶばかりに 漕ぎ渡るかな

詠んだのは今川了俊《りょうしゅん》。まずは了俊の人生の確認から始めましょう。
 生誕はおそらく1326年。「武士も和歌のたしなみは大事」という考えの祖母・香雲院の薫陶を受けて育ちました。「了俊」というのは法名で、元は「貞世」と名のっていましたが、混乱するのでこのお話し中では「了俊」で通しますね。父・範国は室町幕府初代将軍足利尊氏側、北朝方武人で、遠江・駿河あたりで守護大名として働きます。範国の次男の了俊もまた、武人として働くその間も、和歌の権威・京極家や冷泉家で学び、さらには連歌にもはまって、二条良基主催の歌合せにも参加。どうやら『徒然草』で有名な兼好法師とも『源氏物語』を貸し借りする仲だったとか。この頃の武人は官人でもあるのですが、さらに一流の歌人というのは数えるほど。すごいですね、了俊さん。
 1367年、二代将軍義詮が亡くなり、了俊は出家をしました。40代前半、世を捨てるには早いですよね。やっぱりですが、1370年には反対派鎮圧のために九州探題に任ぜられます。出家しているのに、戦の総監督……最初は良かったのですが、窮地に立たされ、でも何とかしのいで、1392年に九州を平定しました。長い戦で疲れたんでしょうね、中風になってしまったようです。1395年、70歳手前で「上京すべし」と三代将軍義満に言われ、馳せ参じると、「君、九州はもういいからね」とまさかの罷免!遠江に戻り、落ち着いた生活を送ろうと思いきや、身内がらみのトラブルが巡り巡って、義満の耳にも入って疑われて、追われて、「今川」を名乗ることさえ禁じられる羽目に。許されたのは1402年でした。
 晩年は歌学書等執筆中心の生活をしていたようですが、長生きの秘訣はどうやら「執着」。『太平記』ならぬ『難《なん》太平記』等で今川の正当性や功績を主張。了俊が亡くなった記録が無いので、おそらく80代後半だろうと言われていますが、中には96歳まで生きた説もあるようです。
 次に、歌の背景を見ていきましょう。義満は政権運営に余裕ができると、寺社詣で兼現地視察兼将軍権威高揚の旅行を企て始めました。そのひとつが厳島神社に行くこと。1389年、了俊も同行し、『鹿苑院殿厳島詣記《ろくおんいんどのいつくしまもうでき》』を執筆。冒頭の歌は復路、牛窓に立ち寄った際の歌として記されています。順を追って、往路から見ていくと
「六日、御船出でて、牛窓、まゐのすなどに至りぬ。誠や、此牛窓といふ所は、昔、息長足姫《おきながたらしひめ》の御船出の時、怪しかる牛の、御船を覆さんとしけるを、住吉の御神の、捕りて投げさせ給ひしかば、彼の牛転び死けるが、島となりて、それより牛窓といふなりけり。牛転ぶと書きて、牛まどと訓むとなん聞き侍りしなり。」と牛窓の地名の解説をしています。
そして復路、
「廿四日、出で給ひて、かの屋島といふ方など見渡して、備前国よもぎが島といふ所になりぬ。
 いく薬 とらましものを よもぎ島 およぶばかりに 漕ぎ渡るかな
今夜は牛窓に御留まりなり。赤松右馬助参りて饗つかうまつるなるべし。夜になりて、また神鳴り、霰降り、大雨風になる程に、船の碇を取りて、此泊のすこし東のわきに船を直しき。」とあります。
 問題はこの「よもぎ島」。鹿苑院殿厳島詣記の注釈には、「まゐのす」は「前島のことか?」とありますが、蓬島は「黄島・青島・黒島などあるが、(中略)不明。一般によもぎが島は蓬莱《ほうらい》山のことで不死薬のある所とされる」と。前島は緑島とも呼ばれていたようですので、蓬の緑を連想してもよさそうですが、了俊の他の用例を見ると、『道ゆきぶり』には備後のくだりで、「いかにして 蓬の中の 蓬だに 麻に似たるは 少なかるらむ」という和歌があり、この蓬は「生い茂ってもつれたもの」というたとえでシンプルに使っています。
 他の可能性としては、ペンション村の近くは、なんと蓬崎と言いますし、鹿忍の弁天島もちょっと怪しいですが……。

歌碑のある蓬崎から、端の小島、中の小島、黒島、黄島をのぞむ。
鹿忍から西脇に向かう途中の景色。左に突き出しているのが弁天島。

 蓬莱から見当を付けなおしてみましょう。
 「蓬莱」と言えば『史記』の秦始皇帝紀第六「斉人徐市~」で始まる徐福《じょふく》伝説ですね。ざっくり言うと、蓬莱は仙人がいるという山の名。不死の薬が在るという。徐福は三千人の若い男女を連れて不死の薬を取りに行くから援助してください、と始皇帝を口説き、にもかかわらず、行った地に住み着いて帰らず、始皇帝は死んでしまった。「熊野」「熱田神宮」「富士山」など日本各地に「我が地こそは蓬莱である」と名乗る所がいくつかありますが、どうやら中国の伝説では蓬莱山は渤海《ぼっかい》湾の中にある島のようですね。
 興味深いのは、蓬莱伝説に関する書籍の中に「蒙古の襲来は記紀の神功皇后による朝鮮半島諸国の征服神話の記憶を呼び覚ましたが…」とあること。神功皇后つまり息長足姫伝説は、瀬戸内海のあちらこちらに「出産を遅らせるための岩」などの伝説が残っています。いくらなんでも産み月が合わなさ過ぎ、そもそも、神功皇后が(実在したとしても)往路はきっと日本海経由だろうという説もあるくらい。ならば、瀬戸内海側にゆかりの地がある方がおかしい事になります。しかし、戦の正当化にはなにかと神功皇后を頼る日本人。しかも、室町時代は神と仏が入り混じって、神と仏の両方の性格がある八幡様も牛窓神社におはしますし、武士に崇め讃えられた僧形八幡神もおいでになる程。さて、そろそろ整理すると
・今川了俊63歳、31歳の義満の豪華絢爛視察旅行に同行。歌詠みとして美文で紀行文を署す意気込み満々。
・往路。武士として、また九州を治めていたので、神功皇后伝説をよく知っていた。ここぞとばかり牛窓の地名伝説を書き記す。
・復路。いささか旅の疲れを感じたところに、水夫が往路のまゐのすとは異なる島を目掛けて一生懸命漕ぐ様子から「不死の薬を取りに行くみたい」と詠んだ。
 天気が崩れて「もっと東の港に移った」とあることから、元は南の港に停泊、しかもそもそも蓬莱山は湾の中の島ということは…やっぱり蓬島は中の小島か端の小島かしらんと思っていたら、鹿苑院殿厳島詣記の注釈には藤原家隆の歌「君がためよもぎ島もよりぬらしいく薬とる住吉の浦」という歌が載せられていました。
 なるほど、住吉ね、神功皇后とも縁が深いし。確かに当時の一流の人たちがこの歌を知らなかったはずはありません。と考えると、冒頭の歌は義満を始皇帝になぞらえてとにもかくにもヨイショ!という感じが濃厚に漂ってきました。波を超えて最後に牛窓湾に近づき、力の限り船を漕いでいる水夫たち。主君に捧げる不死の薬を取ろうと頑張ったことにして、まあ、島なんてどこでもいいや、不死なんて夢みたいなものだし、というところかも。
 了俊にとっての君たる義満がなくなったのは1408年。了俊の最期が定かではないので、もし了俊の方が長生きだったとしたら、「あのとき、不死の薬を取りに行くみたいな歌を詠んだよな?でも、間に合わなくて、俺、先に死んじゃったじゃん。お前も徐福だよな」と義満に言われたかもしれませんね。結局どちらが長生きか、わからない、そのことにも妙味があるような気もします。

参考文献----------------------------------------
『牛窓町史』、『中世日記・紀行文学全評釈集成 (第6巻)』勉誠出版、『史記1本紀上』明治書院、『神道の中世』伊藤聡、「平安時代文学における『よもぎ』『蓬』について」小島雪子
監修:金谷芳寛、村上岳 文と写真:田村美紀

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