現在のmacOSなどで採用されているマウスによるGUI操作などはXeroxのParc(Palo alto reserch center)で発明されたものだという話は有名だが、IEEEで、その歴史について書いていたので印象に残ったポイントをメモする。
もともとXeroxがSDS社を買収した後に、SDSが持っていた資産を活かすために研究所を立ち上げるのだが、呼び寄せたのがミズーリー大学で学長を務めていた旧友で、彼が集めた人物はXeroxの事業に関係しないどころか、SDSのライバルであるDECのコンピュータを使いたがる。当時にPARCにいたアラン・ケイはSDSのSigma7というコンピュータを使ったらどうかと言われたときのことを回想している。
結局、DECを使わずSigma7などSDSのコンピュータの上でDECのPDP-10をイミュレータとして動かしたのだが、DECを始めとする多くのコンピュータが持ち込まれたARPAnetのプロジェクトで「最も連続稼働する」という記録を樹立する。DECの製品を使っていたら生まれなかったような工夫が生まれることになったわけだ。
PARCは創業者による「100人のユーザ向けに設計すること」というblood oaths(血の誓い)というものがあった。time-sharingのシステムを作るなら100人同時実行できること、プログラミング言語を作るなら100人が自力でかけるものであること、パソコンを作るなら100台作れるものであることといった具合だ。
実際、1975年に発表されたApple Iが最終的に出荷されたのは200台だが、同じ年にはPARCは研究所の中で200台のAltoが日常的に使われていた。Robert MetcalfeがEthernetを開発する前に、原型はAltoで動いていたらしい。この環境でマウスが発明され、レーザープリンタが発明されていく。
そんな多くの偉大な発明を生み出したPARCだがアラン・ケイが1980年にsabbatical(長期休暇)を取ったままPARCに戻ってこなかった。それ以外にも多くの有名人の名前が並ぶ。アラン・ケイは「生物は自分が廃棄したモノの中では生きられない」と語っている。
とにかく長い記事で、PARCが生んだ数々の発明に少しずつ触れているので、主要なターニングポイントが見えにくいだが、AltoをパワーアップさせたDoradoというコンピュータの登場がひとつのきっかけだったようだ。このあたりから、Altoが商業的に成功していないことや、PARCで生まれた技術でAppleが成功を収めようとしていることなどが研究者のモチベーションに影響したのかもしれない。
PARCがユニークなのは、大企業にも関わらず初期に工夫しながら環境を整える一方で、ARPAnetのような大舞台に参画してるような二面性だろう。研究所を設立できる規模になった企業が、いざ研究所を設立して人を集めるタイミングで、どういう人を集めて、どういうビジョンを提示するか。もしくは研究所ほどでないにしてもファーストペンギン的なミッションを立ち上げる場合も、ノウハウは起業ほど数も多くないだろうから、意識的に探していきたい。