映画や出来事に「なってみる」術とは ー小津ダンスを通して考えたこと

作品や出来事そのものに「なってみる」ことはできるのか?その術とは?

ぼくは先日、「小津ダンス」というワークショップに参加しました。その感想を書きなぐります。長すぎて読めぬ!という方のために、ぼくのメモを貼り付けておきます。

小津ダンスとは

小津安二郎の映画にでてくる人の動き・身ぶりは、信じがたいほど正確に、複雑に「振り付け」られています。このワークショップ/レクチャーでは、「小津ダンス」を観察し、いっしょにやってみたいと思います。映画の見え方が完全に変わるはず。

小津ダンスは、芸術学の研究者である平倉圭さんと、ダンサー振付家の砂連尾理さんが始められた分析であり批評であり、創作の実験であるような活動です。「小津安二郎の映画に出てくる人の動きが変だ…」という発見から、小津による「振付」を分析し、動きを模倣(トレース)し、どのように表象するかを試みています。

立教大学映像身体学科の砂連尾ゼミでは、小津映画の数十秒のシーケンスを、複数人でトレースすることを試みられていました。ぼくも実際に見学に行きました。

なぜぼくがこの小津ダンスに興味をもったかというと、「映画の登場人物の動きをトレースする」という活動には、赤ちゃんの観察と共通点があると思ったからです。

ぼくは赤ちゃんの観察と探索活動のサポートし、昨年本を出しました。そのなかで、いくどとなく赤ちゃんの動きを「トレース」することから赤ちゃんの学びのプロセスを追体験しようとしています。たとえば自分の指を舐めてみたり、ずりばいをしてみたり。トレースによって、赤ちゃんが感覚と運動を往復させるなかでどのように身体の使い方を学んでいるのかが見えてくるのです。

その「観察ートレース」という体験と、小津ダンスの活動には「見るということの身体性」が通底しているように感じたのです。だから、これは体験しなければならない!と思いました。

あと、砂連尾さん、平倉さん、そして今回撮影兼レクチャーに参加された濱口竜介監督のそれぞれの著作のファンであるというのも、大きな理由です。

リズム、キュー、奥行き

ワークショップの会場は、「blanclass」という小さなアートスペースでした。京急線の井土ヶ谷駅から徒歩3分ほどのところにあり、気鋭のアーティストたちが実験的な表現について探索するアジール的な場です。

ぼくは前の打ち合わせが長引いたため、30分ほど遅れて到着してしまったのですが、開始30分ですでに異様な集中力に包まれていました。

まず、砂連尾さんと平倉さんからレクチャーがあります。『小早川家の秋』『秋刀魚の味』といった往年の名作のなかから、ほんの30秒程度のシーケンスを繰り返し再生しながら、「なぜ小津映画の人の動きはダンスといえるのか」が説明されていきます。

文章で説明するのは非常に難しいのですが、3つほど大きな要素があると言えそうです。

1つは鳴っていないメトロノームのようなリズムが、役者の動きのなかにあること。もう1つは、ある動作がきっかけとなって、他の役者が動きだす、キュー(合図)のネットワークがあること。3つ目には、水平垂直に区切られた画面の中で、役者たちが見るものに奥行きや間合いを知覚させながら、重なり合って動いていくこと。こうした法則性があることがレクチャーを通して示されます。

次に、ハンズオン。あるシーケンスのなかにあるリズム、キュー、奥行きといった要素を意識しながら、参加者全員で実際に動いていきます。

『秋日和』のワンシーン

トレースしたシーンの1つをご紹介します。
登場人物は4人、時間は30秒ほどです。

登場人物
・先生
・社長
・社長夫人
・女工

社長「はははは!」
社長(女工が歩いてくるのに気づいて)「何?」
女工「三輪先生にお電話ですけど」
社長「電話?」(電話の方を見る)
  「こっち切り替えて」(電話を指差す)
先生「はい」(立ち上がって電話の方へ行く)
  「おそれいります」(電話を受け取る)
社長「どうぞ」(電話を渡して去る)
夫人(先生の前を横切ってものを置いて去る)

時間にしてわずか30秒ほどのシーンです。何の変哲も無いように見えるこのシーン、ですが、より細かく見てみると、こんな風になっています。

社長「はははは!」
  (笑って席を立ち、3歩歩いてふりかえる)

女工(社長が止まると同時に3歩歩いてお辞儀してとまる)

社長「何?」

女工(お辞儀をしながら、先生の方に目をやり)「三輪先生にお電話ですけど」

社長「電話?」(電話の方を見る)
  「こっち切り替えて」
  (電話を指差す。同時に体を左に開く。画面に対して体が平衡になるように、やや不自然に)

先生「はい」(立ち上がって電話の方へ行く)(女工、お辞儀をして歩く)

社長(電話を右手でとって左手に持ち替えて先生に渡す)(受け取ったと同時に女工がフレームアウト)

先生「おそれいります」(電話を両手で受け取って左手で持ち、右手をテーブルの上に置く)

夫人(先生が電話を受け取り、女工がフレームアウトしたと同時に立ち上がって歩きはじめる)

社長「どうぞ」(電話を渡して去る)

夫人(電話の横に置いてフレームアウトする)
  (同じタイミングで夫人のフレームアウトし、社長がドアを閉める音がなる)

や、文章で表現するのものすごく難しいですね…。

( )のなかに役者の動きやタイミングを書いてみたのですが、おそらくもっと細かく統計立てられた指示が小津監督からなされたのだろうと推測されます。誰の何の行動が合図になって人が動いているのか、繰り返し見るうちになんとなくわかってきます。

(そもそも、ある映画の30秒ほどのワンシーンを何十回も繰り返し見ること自体が異常事態なんですけども。)

これ、気になる方は是非見てみてください。『秋日和』。

他にも、複数のシーンをトレースしていきます。女性が別の女性に話しかける20秒ほどのシーン、3人の人物が座ったまま、手の動きとわずかな首の動きだけがあるシーンなど。

トレースという心理障壁の低さ

ここで1つ思ったことは、「トレース」は心理障壁が低いということです。

「心の中のイメージを動いてください」と言われたら、ぼくならば身がこわばってできません。でも「映像を見て、そのままを動いてください」という指示は、身体を動かすというちょっと恥ずかしい行為に踏み出すうえで、心理障壁が低く感じられました。

動きのトレースはデッサンを描くことに似ています。ダンサーとして活動されている方々はかなり正確に素描できますが、ぼくのような素人はなおかつバランスのわるいラフスケッチになる。それでも、なんとなくはかたちになる。そのことが楽しいのです。小津ダンス的快感に、一歩近づける。

複数の人物を1人が同時にトレースする

さて、ワークショップ。休憩を挟んだのち、ある映像を見せていただきます。それは、1人のダンサーが複数の登場人物を同時にトレースする、というものです。

このときのダンサーは、登場人物A、B、Cを同時に憑依させています。そして、動きの順番をゆるやかに再現しながら、もぞもぞと動きます。メリハリをつけて登場人物を演じ分けるようにはしません。もやもやっと、砂連尾さんの表現を借りれば「いいよどむように」動いています

まるで画面全体を踊るように、複数の身体や空間のリズムを個人の身体に圧縮するように、動いたものだそうです。

それを見ただけでは何をしているかわからない、もぞもぞ、ごにょごにょした、はっきりしない動きです。しかし、映画の該当するシーケンスを見ながらその動きをみると、なんとなく、誰の動きをトレースしているのかが見えてきます。

まるで、小津映画の登場人物を同時に憑依させたキメラのように見えます。ここでは仮にこれを「小津キメラ」と名付けておきます。

小津安二郎とセザンヌ

このダンスをみながら、平倉さん、砂連尾さん、そして濱口さんがディスカッションを重ねていきます。

そのなかで、「小津は画面のなかで起こる全てを、常軌を逸した細かさで制御していたのではないか」という仮説が見えてきます。人、言葉、動作、順番、リズム、空間といった要素を、等価に扱っていたのではないか?という話から、突如としてセザンヌが登場します。

セザンヌの『農夫の肖像』という絵があります。

背景の木と、人物と、小さな塀のようなものとが同じ色調で描かれています。そして塗り方にもチャチャチャ、チャチャチャ、と塗られたようなリズムがあります。

木の枝のカーブと農夫の肘から膝、脛にいたるまで、画面全体にななめのゆるやかなカーブがあります。木と農夫の連動、塗り方のリズム、といったものから、農夫を描いたセザンヌもまた踊るように身体性をもってキャンバスを統制していたのではないか?と考えられるようなお話が登場します。(あくまでぼくの解釈です)

この話が補助線になって、ぼくは「小津ダンス」から学べることは、映画/絵画/作品に「なってみる術」なのではないか?と思いました。作品とは物だけでなく、作家の手つきや身振りも含むものです。

「なってみる」という意味のニュアンスが難しいのですが、映画や絵画で描かれている人に「なってみる」だけではなく、映画のなかにある行為のリズムや空間、絵画残されている筆の運動をよく見て、想像し、身体で再現してみる。

人になり、筆になり、リズムになるということは同時には不可能です。

でも、脳の中ではあらゆるものに「なってみる」ために情婦処理システムが駆動しているのではないか?

その情報処理しきれない不可能性が「小津キメラ」に現れている「言い澱み」なんじゃないか?

そもそも、ありとあらゆる映画や絵画や芸術作品をみるときに、このような「複数のものに同時になってみようとしてなりきれない身体」になっているのではないか?

いや、作品だけじゃなく、もしかしたら日常の中であらゆる人や出来事に遭遇しているときの自分もまた、このような身体になってしまうのだけど、なってしまうと大変だから、そうならないように気をつけているのではないか?

そんなようなことが、頭の中をわーっと駆けめぐります。もやもやした思考のガスが、噴出寸前まで膨れ上がるような。

平倉さん、砂連尾さん、濱口さんのスリリングなディスカッションに、周辺的に参加できること自体が、「観察ートレース」の意味を考える人間の1人としてとてもありがたいことでした。欲を言えば、他の参加者ともっと交流したかった。みなさんがそれぞれ頭の中で何を考えているのか、もっと聞きたかった!

小津ダンスを踊るとは?

このワークショップ&レクチャーには結論はなく、最後に数人の参加者の人から質問や感想を拾いながら、おひらきとなりました。

小津ダンスとは、小津映画の統制された画面に登場する複数の人やものの動きを、観客である我々がトレースしながら動こうとすることである、ということは言えそうです。もちろんそんなことは不可能なのだけど、そのことを引き受けながら、それでもなおその映画のなかにあるリズム、キュー、奥行き、微細な仕草の制御を読み、動こうとするということなのだと思いました。

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さて、ここからはぼくのとりとめもない感想です。この小津ダンスというワークショップ、とにかく面白くて、でも、何が面白かった〜とか、こんな言葉が刺さった〜とか、簡単にはおよそかけないタイプの経験です。でも、3つ思ったことがあるので、それを書きます。

脳の中でトレースすること

『脳の中の身体地図』という本の中に、こんな一節があります。

「私が何かしているのを見て、何をしているかわかるのは、あなたの脳にその行為のコピーがあるからなのですよ」
「あなたが私になるわけなのです。あなたが物をつかんでいるところを私が見たら、私自身がつかんでいるように思うわけです。」

これは、ミラーニューロンのことを説明した言葉です。

ミラーニューロンとは、ごく簡単に言うと、他人がやろうとしていることをシミュレートする脳の神経細胞です。例えば、映画のなかで役者が「電話を手にとって耳にあてる」という動作をするのを見ているとします。そのとき、自分の脳内でその動きを自動的にシミュレートしながら「電話をしようとするしているのだな」ということを理解します。

これがミラーニューロンの働きです。他人の動きの意図や目的を理解できるのは、私たちのなかに、その動きのテンプレートが備わっているからであると言えます。

この本のなかには、「ピアノを演奏できる人のほうが、他のピアニストの指の動きを見たときにミラーニューロンが賦活化する」と言う報告がありした。つまり、その動きについてよく知っている人であればあるほど、動きを見たときのシミュレーションの精度が上がっていくわけです。さきほど、作品をみることは作品に「なってみる」ことなのでは?と書きました。「なってみる」精度もまた、作品をつくっている人であればあるほど精度が上がるはずです。

ミラーニューロンの話と「トレース」が異なるのは「運動」が含まれるか否かです。通常は、見るだけで脳内でシミュレートするので、実際に身体は動かしません。トレースは、見たものを脳内でシミュレートし、実際に運動します。

運動には、計画があります。それは脳の中で手順を考えてから身体を動かすというプロセスです。トレースという行為のなかで、ぼくたちは「見る」「動きの順番を認識する」「動きの順番を計画する」「動く」という手順をふまえていきます。そうしながら、知覚したものを自らの動きに再現していくことをしています。

小津ダンスは、このようなミラーニューロンを基点とする観察(鑑賞)から運動への働きを使っているのだと思いました。小津映画の動きをトレースすればするほど、映画の中の登場人物を脳内でシミュレートする精度が上がっていく。精度が上がれば上がるほど、小津が映画をどのようにつくってきたのかがわかるようになっていく、という効用があるなと。

映画を見るということは、そのシーケンスのなかに登場する複数の人物の行為を同時にシミュレートするということでもあると言えます。では、なぜ小津の映画だけがその複数同時シミュレートを魅力的に誘うのか。そのことについては映画に詳しい人にゆずりたいと思いつつ、引き続きぼくも考えます。

ぼくたちはいつ「小津ダンス」的なことをしているのか

そして、もう1つ考えたことは「ぼくたちはいつ小津ダンス的なことをしているだろうか」ということです。そしてぼくは「あるエピソードを経験し、他人に語る時」だと思いました。

あるエピソードを他人に話すとき、その場にいた複数の人のことを想起しながら話します。複数の人がどういう位置関係で、どういう順番で動いたか、会話にどんな流れがあったのかを頭のなかで再現しながら言語にしていきます。

このエピソードの語り方には、二種類あると思っています。憑依型とナレーション型です。

ナレーション型は、その状況を客観的に説明するやり方です。一方憑依型は、その登場人物を演じ分けるように、セリフや場合によっては身振りをいれながら再現していく、ちょっと大げさなやり方です。

これらのナレーション型と憑依型を、ぼくたちはなんとなく使い分けたりごちゃ混ぜにしたりして、エピソードを他者に語っているのではないかな?と思いました。

そして、それはとても小津ダンス的なのではないかと思ったのです。

いや、小津ダンスは、そもそも小津が完璧に統制しようとした画面があり、その統制された画面を読むことなので、まったく違うといえばそれまでなのですが、、、

エピソードを人に語るとき、2つの段階に分かれます。経験の段階と、語りの段階です。映画に例えるなら、撮影の段階と、上映の段階。

経験の段階では、ぼくたちはある現実の渦中にいたり、あるいは観察していたりします。今起きていることが面白いぞ!と思った瞬間に、自分の心をカメラのようにし、目の前の現象を記録するように見ていきます。会話をしたりやり取りをしたりしながら記録する人は、役者でありながら監督であるような感じです。

語りの段階では、その場で起きたことを再現しますが、現場通りには再現できません。なので、そこにいた登場人物の行為や、目的や、言葉の順番、リズムや間のおかしみなどを、1人の人間が引き受け、物語ることが必要になります。

このときに、聞いている人にとっては誰が何をしたのかよくわからなかったり、何が起きているのかわからなかったり、何が面白いのかわからなかったりする、でも「この人は何かを経験したのだな」ということはわかるというような状態があるとして、それが「小津キメラ」を見るぼくの心情だったのかもしれない・・・。

ある経験をわかりやすく、明快に、テーマや要点を整理して語ることだけが重要なのではないと思います。順番や目的やリズムやおかしみが、自分の中にはたまっているが、他者に伝わるのかわからないような、よどみのような語りがあってよいとぼくは思います。

「なってみる想像力と身体」

「小津ダンス」は、小津の意図によって統制されたシーケンスを観察し、その意図を含めて動きをトレースしてみる試みであるとします。では小津ダンス的な経験と語りとは何か。

たとえば、あらゆる出来事は何かの意図によって作られていると考えてみます。小津ほどいきわたった統制ではないにとしても。

たとえば、道端を歩くという出来事。道の幅や向き、そこを歩く他人の歩く方向や体格などによって、ぼくたちの歩き方は変わります。道や他人を、ぼくたちの動きを作るための「意図」であると考えることはできると思います。

小津のように画面の外側から見ている人がいないだけで、道の幅や他人の体という物理的な要因が、ぼくたちの歩くという行為を「振り付け」しているとも考えられる。ぼくたちは、道や他人にはなりきれないのだけど、その場全体に「なってみる」という試みのなかで道を歩いているのかもしれない。

「今日道を歩いたんだ」など他人に語ることはしないと思うけれど、あえてしてみるとすれば、ただ歩いた自分と道そのものや他者をトレースし、同時になってみようとしながら、語ることはできなくない。

何の話だかわからなくなりながら勢いで言葉を吐いていきます。

小津ダンスをとおしてぼくが考えた問いは、なりきれないことを引き受けながら、何者にも「なってみよう」とする想像力は働きうるのではないか?ということです。

「他人の気持ちになろう」とはよく言います。しかしそれはとても大変で面倒で、安易にやろうとすると疲弊する行為です。まず気持ちから入るよりも、「なってみよう」とすべきなのは、他人の身体であり、固有のリズムであり、環境なのかもしれません。

そうした「物」がもつ意図を受け取る身体を備えておく。その身体でもって、ミラーニューロンを駆動させながら他者の身体やその周囲の物やリズムに「なってみよう」とする。そうして「物」の物性をトレースすることから、その奥にやっと「気持ち」がみえてくるようなものなのかもしれない。

赤ちゃんや子どもに「なってみる」ことは不可能であるが。不可能性を引き受けながら、なお、なってみようとする想像力をもってみると、ぼくたちは子どもと豊かな関係を結び、よき未来をつくれるかもしれない。

そういうことをぼくは仕事を通して提案していきたいと思っています。そのことに対して、「小津ダンス」は大きな勇気を与えてくれたように思います。

さて、ここまで長文におつきあいいただき、ありがとうございます!

最後に宣伝ですが、小津ダンスの発案者のお一人である砂連尾理さんと、ミミクリデザインと共同で「子どもの身体を踊る」というワークショップを準備しています。ぜひ、お子さんとご一緒にご参加ください!



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コメント2件

「なってみる想像力と身体」面白かったです!小津ダンスは映画の場面を知らずやや実感しにくかったのですが、絵画の話は、模写をやったことがあるので非常にわかります。模写もナレーションと同じく作者の技術を分析・説明しながら描いていくのですが、目的はむしろ作家への憑依、あるいは対話にあるのではないかと思っています。
有賀さん、コメントありがとうございます!

たしかに、「映画を模写する」と考えると、奇妙だがそういう試みだったと腑に落ちました。そしてよく考えれば、レシピの本も「模写」「トレース」に近いですよね。そして「スープレッスン」は、有賀さんへの憑依・対話とも読める・・・。

創作することとそれを見る/読むこと関係について、最近ぐるぐる考えています。
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