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胎児がダンスを振り付ける ー妊婦と踊るというフィクション

アートは日常生活で直接役立つわけではありません。でも、ある種の「フィクション」であるアートが、めぐりめぐって日常に影響してしまうことがあります。

今日は「妊婦と踊る」という一風変わったパフォーマンスを観に行った感想を書きます。アートが好きで、赤ちゃん研究もしているぼくは、このタイトルだけで観に行かないわけにはいきません。しかも演出は尊敬するダンサー砂連尾理さん。

先日、砂連尾さんの著書『老人ホームで生まれた<とつとつダンス>』を引用してこんな記事を書きました。

ぼくは赤ちゃんのきもちを想像することが彼らとの暮らしを豊かにする道であると思っています。そして砂連尾さんが考える「ダンス」は、その想像力を増幅させる手段として、豊穣な可能性に満ちています。

そんなおりに、砂連尾さんが「妊婦と踊る」というので、三鷹まで足を伸ばしパフォーマンスを見てきました。

登場人物
砂連尾理さん   :ダンサー
古原彩乃さん   :妊婦さん
古原さんの旦那さん:付き添い(?)
椎野まりこさん  :まんまる助産院 院長
片岡祐介さん   :即興音楽家
もう一人の妊婦さん:参加者公募で応募された方

三鷹の街角にあるちょっとした広場で、パフォーマンスは始まります。

壁を越える

このパフォーマンスの大元である芸術祭「TERATOTERA」のステートメントが事務局の方から読み上げられます。

私たちを隔てる目に見えない「壁」を考えるというもの。

妊婦のお腹は胎児と世界を隔てる壁であり、ダンスの想像力でそれを超えられるか、どうか。考えてみようといいます。

胎児に振り付けられる

砂連尾さんが妊婦さんのお腹に触れ、「胎児に振り付けられる」という。胎児を模倣したような、胎児に動かされているかのような動きをし続けます。そこに妊婦さんも参加していきます。

ときおり、砂連尾さんが胎児のようにくるまった体の形になり、その上に妊婦さんが覆いかぶさります。砂連尾さんが胎児になったようにみえます。

かと思えば、砂連尾さんが妊婦さんを包むような体の形になり、妊婦さんのほうが身を屈めます。妊婦さんが胎児になったように見え、その中に本物の胎児がいる。3重にも4重にも、体が体を包むという姿が浮かび上がって見えます。

妊婦の叫び

妊婦さんがラップをします。障害児を生まないために食事を制限している。私はこれまで障碍のある人と関わってきた。ありのままをうけいれればいいじゃんと思っていたけれど親になってみると、障害児をうまないために食事を選んだりしている。もやもやする。

ということをラップにしていた。障碍児の親になる、という話題からは、どうしても出生前診断やそれにともなう中絶の話を想像してしまいます。

助産師

今回のパフォーマンスのきっかけにもなった「まんまる助産院」の院長椎野まりこさんが、「赤ちゃんを妊娠し、産むからだをつくるためにイマジネーションを駆動させる」という話をされます。

そしてその後、椎野さんが分娩台での出産、そしてフリースタイル出産を再現されます。イマジネーションの大切さをうったえていることもあって、その再現の解像度が非常に高かったです。

しかし、それは三鷹駅前の街角での出来事。艶かしいいきみ声を上げながら腰をくねらせる妙齢の女性を、観客が見守るという構図ができあがっています。分娩の過程そのものは見方を変えればダンスであるということがわかってきます。

出産の歌

即興音楽家の片岡祐介さんに、砂連尾さんが「即興で出産にまつわる歌をつくってください」とフリます。観客から先ほどの椎野さんのパフォーマンスをみた感想をキーワードにして集めます。

「感動」「変だった」「いきみ」「ねじれ」という4つのキーワードに「言い方」がついて、そこにコードを合わせていき、歌ができていきます。

「擬娩」の儀式

古原さんの旦那さんに「分娩の苦しみ」を再現させる「擬娩」という儀式をさせるといいます。

砂連尾さんと椎野さんが、天狗の面をかぶった旦那さんの周りを「ほおおあ!」「ううううあははああああ」とうめき声をあげながら飛んだり、腰をくねらせたり、ときどき旦那さんを引きずったり叩いたりします。

「苦しみ」の姿となって舞っているように見えます。

妊婦と踊る

新しく、参加を希望されていた妊婦さんが加わります。砂連尾さんが二人の妊婦さんのお腹に触れ、胎児に呼びかけるように指先を動かしていきます。そして妊婦さんが揺れ動きます。

砂連尾さんの動きに胎児が振り付けられ、その胎児に妊婦が振り付けられるかのよう。砂連尾さんは二人の妊婦さんからゆっくり、遠ざかっていきます。客席の輪から遠く離れて。

砂連尾さんに合わせた妊婦の揺れ。それ合わせて、妊婦が纏う布をかぶった夫が動きます。妊婦の大きなお腹のなかに、蠢めく命のように見えます。

砂連尾さんが指先の動きを止めます。てくてくと歩いてステージにもどってきて、動く妊婦と夫たちの間に立ち、小さな声で「終わろうと思います」と言います。

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最初に「壁を越える」というコンセプトが提示されます。そのあと、壁を超えて胎動を想像し、それに合わせた動きが踊られます。続いて、妊婦という存在が社会のなかでどのように考え生きているのか、ラップで歌われます。そして助産院の院長による分娩パフォーマンスによって、妊娠と分娩がダンスと区別できなくなってきます。

その衝撃のあと、歌で観客の心と体がほぐれたのち、「擬弁」の儀式を模したパフォーマンスが行われます。擬弁自体がフィクションなのに、「儀式を模している」つまり「フィクションの遊び」として繰り広げられます。

最後に、胎児の胎動に「ふりつけられる」という考え方にたちもどり、今度は砂連尾さんではなく、夫がともに踊ります。

この作品でぼくがとくに印象に残ったのは、構成の最後、妊婦と夫が揺れ動くところです。残念ながら、見とれてしまって写真を撮れなかったのですが・・。

愛着形成とイマジネーション

胎動は愛着形成のきっかけになる」という研究結果があります。

ぼくは妻の妊娠期に、娘の胎動に触れる機会がありました。たしか12週頃に「あれ?もしかしていまの胎動では?」ということがあり、だんだんとその確信が高まっていく、という感じでした。今思えば、はじめのころは「気のせい」だったかもしれません。

ですが、たとえ「気のせい」だったとしても、お腹の中に宿った命の躍動にイマジネーションをふくらませたことで愛着を深めたのは間違いがなさそうです。胎動が確かに感じられるようになってからは、ぽこぽこお腹が動きを感じるたびに「はいはい、元気ですね〜」といったように会話を始めるようになりました。

妻がお腹の中の子が動くのを感じること、そしてそれが何かを訴えていると見立てて、会話をする「ふり」をすることで、愛着が深まっていく様子を、そばで見ていました。妻のその様子を見聞きしながらぼくもお腹に触れ、ぼくも娘の動きを感じていたことを思い出します。そしてそれは目に見えない子どもの動きを必死に想像することであり、フィクションを日常の中に宿す試みでもありました。

この作品のなかで砂連尾さんは、胎動を「振り付け」であるととらえているように見えました。「振り付け」とは胎動を模倣することでもあり、胎動によってほんの0.01mm指先が動かされたものを全身に増幅することでもありそうです。

そのようなイマジネーションをもって、あたまのなかで想像を広げるだけでなく、想像を身体の動きに変える。いわば胎動に振り付けられるとは、フィクションなのだけど、その想像力が日常に宿ったとき「愛着」という確かな栄養になる

胎児への愛着形成のように、フィクショナルな想像力が現実に影響してしまうことがあります。芸術はそうした想像力を増幅します。いや、かつてはその増幅された想像力が芸術であり信仰であり医療だったのでしょう。

砂連尾さんは、まるで遊ぶように踊る。想像力による効能を喜んでいるのか、茶化しているのか。「想像力には効能があります!」と訴えることもなければ、「想像力に効能なんてないよ」と冷笑することもなく、ニュートラルに、妊娠をめぐるさまざまなフィクションと戯れ踊っているように見えました。

砂連尾理「妊婦さんと踊る」
11 月18 日(日) 14:00 ~15:00
● 演出:砂連尾理
● 音楽:片岡祐介
● 出演:古原彩乃(妊娠7ヶ月)、砂連尾理
● 特別出演:椎野まりこ(まんまる助産院院長)
● 会場: 武蔵野タワーズ スカイゲートタワー前広場(東京都武蔵野市中町1-12-10)

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