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秋桜

 小春日和だ。薄紅色の花が庭で揺れている。何気ない陽だまりでたおやかに。
 この庭で同じ景色を見たことがある。いつだったか…そうだ、今から40年近く前、私が嫁ぐ前の日。母と私は、この縁側に座って、あれこれと昔話をしたり、寂しい気持ちを噛みしめたりしていた。
 あの時からこの庭は全く変わっていないのだ。塀際の柿の木も、雨戸の下の南天も、花壇の秋桜も。
 久しぶりに実家に来た。この庭で私は若かった自分を思い出すことができる。

 会社の先輩と結婚を決めたのは21の時だった。付き合い始めて3ヶ月、入社からわずか半年だった。友人たちは「もう少し社会を知ってから結婚したら?」と言った。親せきは「もう少し相手をわかってからいいんじゃない?」と言った。父は理由も言わずにとにかく反対をした。
 母だけは私の味方だった。
 「苦労はするけど、いつか時が笑い話にしてくれる。あなたの好きなように」と言ってくれた。
 その言葉に押されるように私はよく晴れた秋の日、白無垢に身を包んだ。
 秋桜の淡く薄いピンクを見ると、母の優しい笑顔を思い出す。

 あの時、母はこの縁側で涙をこぼした。一瞬母は私の結婚を喜んでくれていないのかと心が曇ったが、すぐにそうではないことがわかった。
 母は涙を流しながら、こう言った。
 「ありがとう。私の娘で生まれてくれて。ありがとう…」
 それが私の見た、母の最後の涙だった。

 確かにあの頃の母は涙もろかった。近所の犬が死んだと言っては泣き、気に入ったドラマが終わったと言っては泣き、私たちが結婚の挨拶へ行った時も台所でこっそり泣いていた。
 でも母は結婚式では泣かなかった。
 その後、父に病気が見つかった。壮絶な闘病の末に2年で父は亡くなった。父の葬式でも母は憔悴はしていたが泣かなかった。
 それから20年。今度は母に腫瘍が見つかった。悪性だった。転移もあった。手術を繰り返した。辛かったろう。苦しかったろう。でも母は涙を見せなかった。

 母の涙はこの縁側で流れ尽くしてしまったのだろうか。
 優しくて涙もろい母が懐かしく、少し寂しい。
 あの時の母に今の私のこの苦しい気持ちを話したとしたら、また私のために泣いてくれるだろうか。

 庭を見ながらもの思いにふけっていると、玄関の横開きの扉が、ガラガラとにぎやかに開いた。
 「ただいまー。あれ、あんた来てんの?」
 どすん、と上がりかまちに荷物を置く音。どすどすと台所へ歩いて行って、そこから大声が聞こえてくる。
 「やっぱり家が一番。あんた、栗買ってきたから持って帰り」
 母は今年90になる。大病を克服し、いつ会っても元気すぎるほど元気だ。今日も老人クラブのメンバーと丹波篠山バスツアーに行ってきたという。
 私も縁側から台所へ声を飛ばした。
 「お母さん、疲れてるでしょ!無理しちゃだめよ!」
 母も向こうから負けじと声を張り上げる。
 「わかってる!あ、栗、私の分も剥いてから帰ってくれる?」
 「…しかたないなあ」
 でも私は立ち上がる気が起きず、ぼんやりと秋桜を見つめていた。ようやく縁側まで母がやってきた。
 「丹波の栗、美味しいよー。買ったら高いよー。…何してんの、ここで。あ、秋桜?何本か持ってって。今年も綺麗に咲いたでしょ」
 「…お母さん、私、明日から入院」
 「ああ、そうだったね。なら持って帰っても枯らすか。それで悲しい顔してんの?」
 「そんなんじゃない…私、大きい手術するのよ。こないだも言ったじゃない」
 「あんたはいつまで経っても心配症ね。大丈夫、今の医学、舐めたらあかん♪舐めたらあっかん♬ってね。あたしもホンマ苦しかったけど、ほら、今、こんな」
 梅干しの種よりしわしわになった顔にさらにしわを寄せて母が笑う。
 私もつられて笑顔になる。
 「ねえ、お母さん、悲しい時、どうして泣かないの?」
 「私、今までの人生で泣いたことあるの、ほら、あんたの結婚式のあたりの更年期の頃、だけね。あれ、結婚式に出たらピタッと治ったのよお。不思議ね。女のバトン、あんたに渡したって感じだったのかな」
 そうだったのか。涙もろい母は最初からいなかったのか。
 「あのね、苦しくても、苦労しても、いつかは笑い話。ネタになるのよ。あたしが入院してた時の隣のベッドの人の話、またあれ話したげよか?」
 母の入院中、同じ病室にはおばあさんがいた。毎日うだつの上がらない感じの息子らしき男性がお見舞いに訪れていた。
 母が手術を終えた後、一番苦しそうな時に、聞こえるか聞こえないかという小さな声で私に言った。
 「…話、聞いて…」
 遺言でも言うのかと心配になって顔を近づけると、息も絶え絶えに耳元で囁いた。
 「…隣の二人、親子…って思ったでしょ?…夫婦なんだって…。人妻だった奥さんを…略奪して…結婚した…みたい…。また何かわかったら…教えるから…」
 こんな時に噂話を収集してる!そう思ったら呆れるやら笑えるやら。でも一番の感情は「安心」だった。多分母はまた元気になる。
 実際に元気一杯で最高の老後を迎えている母は、縁側で足をブラブラさせながら話を続けている。
 「あの夫婦、絵に描いたようなかかあ天下だったのよお。あの旦那、後悔してるわー、結婚したこと。ま、大なり小なりみんな結婚は後悔するけどね。あんたが一番わかってるでしょ。でも、今なら、まあ、笑って話せる、でしょ?」
 魔法の言葉。時は、苦労を笑い話に変える。
 そう思って今を生きることしか私たちにはできないのだ。
 私も全て笑い話に変えてやる。

 私は幸せだ。母も幸せだ。
 庭先の秋桜が笑っている。

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