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良い一日を?

久しぶりにnoteを開いた。「おはようございます。良い一日を」というテンプレートがnoteのスタートには置かれていたんだよね。

空っぽの頭には、その意味が理解できなかった。

自分にとって良い一日って何だったっけ?

人それぞれに良い一日は違う。朝早く起きれただけでも「良い一日」の人もいれば、寝坊したけどギリギリ間に合ったから「良い一日」ととらえる人もいるし、、、

仕事が早く終わったから「良い一日」だ。と感じる人もいるし、ギャンブルが好きな人は今日勝ったから「良い一日」だ。と感じる人もいるワケだ。

つまり、、、ここで気づいたことは「良い一日」というものを具体的にしないと一生やってこないということ。

そして、その定義は人それぞれである社会で、「良い一日」は八百万の神の如く膨大である。そして、そんなことを考えることが疲れる。

でも、子供の頃そんなややこしいことは考えたことはないけど、みんなと遊んだり何か達成できた時「良い一日だった」と思うこともなく充実感を持って眠れていた気がする。なぜだろうね?

良い一日とは。私にとっての良い一日とは何ものなのか。。。

考える間も無く走ってきたり、後回しにしてきたことで、「良い一日」をどっかに置いてきたのかもしれない。

小一時間、、、沈思黙考してみたところ。「これかも」という結論が頭を出した。

「昨日の自分より1つ成長したら、それは良い一日である」

子供の頃は日々、その度合いは小さいにせよ「成長」していた。

友達と仲良くできたり、勝負して喧嘩して悔しい思いをしたり、結果が「良い」のでなく何かをしたことで「成長」できたことが「良い」と思えたのかもな〜って。

社会に出ると、商品棚に並ぶカバンみたいに「品評」される。隣のカバンより優れているためにどう振る舞うか?私は「商品棚」に陳列された時、自分を自分で評価することができなくなったのだろう。

何が流行っているかに合わせて、自分の成長より相手との優劣を意識させられた状態で生きていることで「良い一日」はどこかに行ってしまう。。。

と言いつつ、また、性懲りも無く陳列棚に出社していく惨めなカバンではあるが、私は自分の成長に目を向けて生きようと、noteのテンプレート文を読んで思った。という壮大な思考時間の浪費をし、今日が始まる。

みなさん。「良い一日を」w

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