ミシェル・ウェルベック『セロトニン』書評

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(以下、本作の内容に触れます。未読の方はご留意ください)

・フランス現代文学の鬼才・ウェルベック史上もっとも暗く美しい愛の物語

フランスの小説家で、仏文壇の「恐るべき子ども(enfant terrible)」の異名を持つミシェル・ウエルベック。彼の4年ぶりの新作となる『セロトニン』は、本国フランスで40万部超のベストセラーとなった。9月下旬に邦訳が発売されると、日本でも即重版が決定。好調な売れ行きをみせている。

ウェルベック史上もっとも暗く美しい愛の物語だと評される本作。フランス全土に拡大した反政府デモ「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言したともいわれる物語は、仏紙ル・モンドを筆頭に好意的に受け入れられた。他方、人種差別や女性蔑視を疑われかねない過激な表現を伴う「ウエルベック節」は今作でも健在。性的なことに執着するモテない中年男性の鬱々とした呪詛はもはや彼のお家芸だとも言えるだろう。

『セロトニン』の主人公は、巨大バイオ企業のモンサントを退社し、農業関係の仕事に従事する46歳のフロラン。冷め切った恋人関係にあった日本人女性ユズが撮りためた「獣姦乱交ビデオ」の発見をきっかけに、彼は「蒸発者」となってしまう。過去の愛の記憶にとらわれ続け、うつ病を発症してしまったフロランは、抗うつ剤に依存しながらホテルを転々とする暮らしを続ける。今作のタイトルにも採用されたセロトニンとは、幸福ホルモンと呼ばれる神経伝達物質だ。「それは白く、楕円形で、指先で割ることのできる小粒の錠剤だ」の一文ではじまる今作では、セロトニンの血中濃度を上げる抗うつ剤「キャプトリクス」が重要な役割を占める。

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・中年男を苦しめる現代の「自由」

二〇一七年初期にキャプトンD-Lが発見されたことで、抗うつ剤の次世代に道が開かれ、効果を上げるメカニズムもより単純になった。肝臓の粘膜で形成されたセロトニンの細胞外への分泌を助長するというシステムだ。同年末から、キャプトンD-Lはキャプトリクスの名前で販売されることになった。この薬は突如として目覚ましい効果を見せ、患者たちが発展した社会においてしかるべき生活に伴う主な習慣(身支度をし、隣人と最低限付き合い、役所の簡単な手続きを行うなど)をかつてないほどやすやすと行うのを可能にした。そして前代の抗うつ剤と異なり、自殺や、自傷行為に走らせることもなかったのだ。

キャプトリクスの服用で見られる最も一般的な副作用は、嘔吐と、性欲の喪失、不能などだ。

僕は嘔吐で困ったことは一度もなかった。(ミシェル・ウェルベック『セロトニン』関口涼子訳、河出書房新社、2019年、P.5-6)

抗うつ剤の副作用は「しかるべき生活」の代償としてフロランを「不能」にする。セックスに執着し、それ以外の喜びは性生活の派生物にすぎないと考えるフロランにとって、その代償は大きかった。「ぼくは孤独のうちに幸福を見いだすことができただろうか。そうは思えなかった」と悲観する彼の症状は、物語が進むにつれて悪化していく。

フロランは「不能」になったことをきっかけに、過去の恋人や友人との再会を思い立つ。大学時代の親友として登場するエムリックとの再会のエピソードは、とりわけ物語の中で重要な位置を占めている。工業的な畜産から距離をとり、有機的な酪農に従事するエムリックは、グローバル市場におけるフランス農業の危機的状況に巻き込まれていた。政府による支援を訴えるため、銃で武装し道路を封鎖するデモを画策するエムリック。絶望の淵にいる彼は、国際的競争が強いる悲惨な現実に対して「なんらかの保護政策はありえないのか」と、農業食糧省で働いていた経験を持つフロランに助言を求めるのであるが、この場面、友人として応答を試みるフロランの解答のうちに、ウエルベックの作品に通底する思想が読み取れる。

「まったく不可能です」ぼくはためらわず結論を下した。「思想的な規制があまりに強いからです」過去の仕事、そこでの何年かのことを思い返し、ぼくは、実際のところ、特権階級の奇妙な迷信と対決していたのだと気がついた。ぼくがコンタクトを取っていた相手は、自分たちの利益〔intérêts〕や、自分たちが守らなければならないとされていた利益のために戦ってたのではなかった、そう信じるのは間違いだ。彼らは思想のために戦っていたのだ。何年もの間、ぼくは、自由市場〔liberté du commerce〕のためなら死ぬ覚悟がある人たちと対決していたのだ。(ミシェル・ウェルベック『セロトニン』関口涼子訳、河出書房新社、2019年、P.203-204)

「自由市場のためなら死ぬ覚悟がある人たち」に対する敗北宣言とも取れるこのパッセージに、自らを裏切ったユズへの呪詛を聴きとらないわけにはいかないだろう。「利益=好意(intérêts)」や「自由市場=肉体関係の自由(liberté du commerce)」など、フランス語の多義性を利用したこのパッセージには、フロランのユズへの軽蔑が間違いなくエコーとして響いている。上流階級の出身者として文化事業に携わりつつも、プライベートでは獣姦に勤しみ、「ブルテリアのキンタマを揺らして口の中に入れていた」ユズの「乱交パーティ(soirées libertines)」への嫌悪が、ここではそのままエムリックを苦しめる「自由市場(liberté du commerce)」への嫌悪にスライドしているように思われる。

このような性の自由と経済の自由への不信感は、ウェルベックの作品の中にしばしば登場するモチーフだ。処女作『闘争領域の拡大』でも、彼の「自由主義」批判は存分に発揮されていた。

解雇が禁止された経済システムにおいてなら、みんながまあなんとか自分の居場所を見つけられる。不定が禁止されたセックスシステムにおいてなら、みんながまあなんとかベッドでのパートナーを見つけられる。完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に拡大していく。(ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』、中村佳子訳、河出書房新社、2018年、P.126-127。)

経済的な自由主義とセックスの自由主義は社会に格差をもたらす元凶だとウェルベックは考える。自由な社会がフロランとエムリックにもたらしたものは、幸福とはまるで縁遠いもの、すなわち孤独、マスターベーション、失業、そして貧困だ。19世紀の哲学者J・Sミルが『自由論』のなかで説いたような「自由と幸福の一致」という自由主義の理念は、現代ではもはや成立しなくなってしまい、残されたのは破廉恥でグロテスクな自由の暴力であると、ウェルベックの冷徹な語りは訴えかけるようだ。

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・幸福の約束? ウェルベックの悲観的な「幸福論」

ウェルベックが『セロトニン』で問うのは、自由と幸福とがもはや一致しなくなった現代社会における「幸福」の諸相だ。エムリックとのエピソードも、単にフィクションというわけではなく、社会学的調査をもとに記述され、平均2日に1人が自殺し、今後十数年で半分に減るだろうと言われるフランス農業の絶望的な現実を反映している。

世界保健機関によれば、世界のうつ病患者は推計3億2,200万人に上ると言われている。フロランもエムリックも、現代社会に適応できなかったことで精神障害を発症してしまった中年男性として描かれているが、精神の病が蔓延する今日の世界に生きるわれわれにとって、他人ごとではないリアリティがある。

ウェルベックは、そのような鬱々とした社会から抜け出すための希望となる視座を『セロトニン』において一切提示していない。むしろ逆に、彼は現代社会が「解決策」のような体でわれわれに提示する「幸福への約束」を徹底的に否定しているように思われる。

現代社会の「幸せへの転回」を分析した文化理論家のサラ・アフメドは、セラピー治療やポジティヴ心理学の流行と、その知見が商品化され消費される過程を「幸福産業」と呼んだ。現代において「幸福」は、ますます市場を通じて取引される商品の様相を呈しているが、『セロトニン』に登場する「キャプトリクス」は、そのような即物化されたまやかしの「幸福」を象徴しているのではないだろうか。

〔キャプトリクスは〕どんな形の幸福も心の安らぎももたらさない、その作用は別の所にある、それは生を型にはめて、生を騙すことを可能にしてくれる。ゆえに人が生きるのを助ける、少なくともある一定の間は死なない手助けをする。
(ミシェル・ウェルベック『セロトニン』、関口涼子訳、河出書房新社、2018年、P.287。訳は筆者が一部変更した)

「キャプトリクス」は、生を騙しながら生きることを可能にしてくれるものの、幸せをもたらすものではない。むしろ副作用によって不能になったフロランは、彼にとって唯一の「幸福の約束」であるエロティシズムの可能性をも失ってしまった。抗うつ剤によって苦痛を軽減しながら静かに死を待つ『セロトニン』の結末からは、もはや「幸福」などというものは幻想にすぎず、苦痛を軽減してくれる薬の唯物的な作用のみが現実だという諦めさえも感じられる。

「もし人生が苦痛であるとすれば、最良の行動は、静かに片隅に引きこもり、すべてを終わらせる老いと死を待つことだ」と喝破したショーペンハウアーの哲学の影響下にあるウェルベックの幸福論は、幸福とは苦痛の軽減にすぎないと考える悲観的な「反-幸福論」だといえるのではないだろうか。

以上のようなウェルベックの悲観主義は、「幸福」の商品化が蔓延し、その即物化が加速する現代社会を相対化する視座をもたらすだろう。そもそも人間には「幸福になる能力が備わっていたのだろうか」と漏らすフロランの問いかけは、市場こそが「幸福」を供給すると嘯く「幸福産業」を吹き飛ばす爆薬として機能する。というのも、この問いかけのうちに、「幸福産業」が期待する「幸福」など初めから実在しないという声を聞き取るのは容易だからだ。即物化した「幸福」は、フロランにとってはせいぜい苦痛の軽減としてしか意味を持ち得ない。この意味で、「キャプトリクス」が象徴しているのは積極的な意味での「幸福」の不在なのだ。

批評家のマーク・フィッシャーが正確に指摘しているように、今日のメンタルヘルスの問題は資本主義と密接に関係している。彼は『資本主義リアリズム』のなかで、精神障害を個人の科学的・生物化学的問題とみなすことで利点を得る資本主義を批判しつつ、以下のように述べている。

精神障害を個人の科学的・生物化学的問題とみなすことで、資本主義は莫大な利点を得るのだ。第一にそれは、個人を孤立化させようとする資本の傾向を強化させる(あなたが病気なのはあなたの脳内にある化学物質のせいです)。第二にそれは、大手の多国籍製薬企業が薬剤を売りさばくことのできる、極めて利益性の高い市場を提供する(私たちの抗うつ薬SSRIはあなたを治療することができます)。全ての神経障害が神経学的な仕組みによって発生することは論を俟たないが、だからといってこのことはその原因について解明するものではない。例えば、うつ病はセロトニンの濃度の低下によって引き起こされるという主張が正しいとすれば、なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されねばならない。そのためには社会的・政治的な説明が求められるのである。
マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』、セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀之内出版、P.98。

精神障害の原因を個人の生物・化学的問題に還元するともに、その解決策は「抗うつ剤」や「セラピー治療」、さらには「ウェルビーイングな経営」という形で市場が提供すると嘯く「幸福産業」のレトリックが、ここで批判されている。現代社会が強いる苦痛は「幸福」をもたらす商品の提供によって補償されるという「幸福産業」の自負は、苦痛の本来的な原因からひとびとの目を背けさせることに寄与する。マーク・フィッシャーが指摘しているように、うつ病の問題において本質的に求められるべきなのは、なぜ「特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのか」についての社会的・政治的な説明であり、ひとびとに「幸福」を約束する「商品」がそれにとって代わることは出来ないだろう。

ウェルベックが『セロトニン』で描いた世界は、自由主義によって孤独と失業を押し付けられた中年男性の鬱々とした世界だ。そこではもはや「幸福」は幻想に過ぎず、抗うつ剤がもたらす苦痛の軽減のみが現実となっている。自由は格差を押し付けるに過ぎず、幸福は現実的に存在する格差から目を背けさせるまやかしであると喝破するかのようなウェルベックの世界観は、「自由と幸福の一致」を現代まで素朴に信仰してきてしまったわれわれの常識に、大きな揺さぶりをかけるのではないだろうか。







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