目からビーム。鼻から歌。 第1回「住まいと滑舌」(2006年)

 先日、長年住み慣れた杉並を離れてしまった。特にこだわって選んだ街ではなかったのだけれど、何のアテもなく飛び込んできた若造に杉並は優しかった。荻窪に4年、阿佐ヶ谷には8年、と気付けば干支だってひと周りしていた。離れてみて初めてしみじみと実感するのだけれど、多すぎるぐらい点在する各種コンビニエンスストアや低価格のファーストフード店、遅くまでやっている書店、雑なものからこだわりがひしと感じられるものまで様々な古道具屋や珈琲店など、これらが醸す独特のムードは心地良く、元来飽きっぽい性格で、席替えや模様替えが好きだった自分としては思いがけずこだわったようなかたちになってしまったというのは、よほど相性の良い街だったのだなあ、と思う。

 だから特に離れる理由もないのだけれど、長いこと眠っていた「席替え体質」がひょっこり顔を出した。慣れ親しんだオレンジ色の中央線から離れ、現在は京王線沿いの友人宅に厄介になりながら、次に住む街をじっくり探している。慣れない電車に揺られるのは意外なほど不安だ。これまでなぜか京王線に縁がなく知らなかったのだけれど、最近立ち寄る用事の多い下北沢や、渋谷・新宿・吉祥寺へのアクセスも容易で、ずいぶん便利な路線なのだなあ、と乗り馴れるうちにだんだんと愛着が湧いてきた。奇縁ではあったが、これを機に京王線沿いで新しい住まいを探そう、と考えた。そうすると不思議と、これまではただの「風景」だった車窓の景色がやけに親しみを帯びてくる。いくつか気になった街が出来た。急行が止まることや都心に近いこと、また街の不動産の相場など、優先するべき基準は色々とあるが、フィーリング、相性だって大事だろう。こういうのは、考えているだけでわくわくするものである。

 が、わくわくしてばかりもいられない問題、もうひとつの重要な選択基準に私はここで直面するのだった。

「自分の住んでいる街の名が、うまく発音出来るか」

 日常会話に、特に会って間もない者らとのそれに「どこに住んでいるのか」というやりとりが多いことは経験的に分かっている。それは当然だ。出会った数だけ「どこ住んでんの?」がある、と言ってしまっても差し支えないのではないか。物覚えの悪い者を相手にする場合など、何度だってそれを言うことになる。その際「うまく発音しにくい街」に住むデメリット、無駄なカロリー消費は意外に極れない、と私は思うのである。私は滑舌が良いほうとは言えず、この「住所言う問題」に、実は東京で最初に住んだ思い出の地、荻窪で何度も痛い目に遭った。 

「おぎくぼ」

 「お」と「ぼ」というこもった音に囲まれた「ぎく」の硬さよ。おぎくぼ。滑舌の悪い者にこれは結構なストレスで。実際「あさがや」に変わったときの心の晴れ具合は忘れられないし、これが4年住めたか8年住めたかの違いだと結構真剣に思っている。加えて荻窪は書くこともなかなかに面倒くさい。バランスのとりづらい「萩」にバタバタと地味に画数の多い「窪」。公的書類等の記入が年に何度あるかを考えるとこの「書きやすさ」も重要なことなのではないか。逆に「書きやすい住所」や「発音して気持ち良さすら感じる街」はそれだけで贔屓してしまうほどだ、というのは行き過ぎのような気もするが、私にとっては大事なことだ。「それを意識すると、おのずと候補地も絞られてくる。それが良いことなのかどうかはともかくとして。ただ、少しだけ残念なのは、下調べの段階ですごく雰囲気の良い街だと感じていた「つつじが丘」と「千歳烏山」を、きっと私は選ばないのだろう、ということだ。そして「桜上水」と「下 高井戸」にお住まいの皆さんには、近々お世話になるかも知れません、と言い残してこの話をお終いにしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?