2021年度東大日本史 考察

各予備校の解答速報も出揃ったようですので、もう少し深く考えていきます。解答速報から解答例を変更する部分もあると思います。

全体概観

難易度としてはそこまで高くない方でしょう。しかしハマりやすい問題が多く、気付いたら時間を使っていた、なんてことがあったと思います。完璧な答案×4を目指すのではなく、まずは及第点の答案×4を作って内容の充実を図る、ということが大切と考えられるセットでした。

第1問

テーマとしては、律令国家の唐風化・貴族社会化の過程です。資料文に書かれていることは8割方、教科書に書いてあることですがこれをまとめるとなると少しハードルが高いです。試験場で出会ったら時間が取られることが予想されます。

教科書に書いてあることといっても、それは必ずしも簡単であることを意味しません。たとえば2015年の第1問は教科書からの切り抜きと言ってもいいような文章でしたが、思考の深度を測るにふさわしい問題でした。この問題も同じで、「大学別曹って何?」「貞観格式って何?」ということがわかっていないと、まとめることが難しい。8世紀の終わり〜9世紀前半にかけての唐礼導入(儀式の唐風化)、法制の整備という流れを理解せぬまま「大学別曹」という単語だけ書いて方向性を見失った答案は、すぐに見抜かれてしまうでしょう。

問題の内容に移ります。要求は「クーデターや争いが見られなくなり、安定した体制になった背景にある変化」です。「変化」ですから普通は「奈良時代以来」と「9世紀後半」の両方について述べなくてはいけません。「変化」を見たらまずはそう思いましょう。ただ、後述するようにこの問題はその限りではありません。

資料文に移りましょう。

⑴皇位継承をめぐる承和の変(9世紀前半)についての文章です。「直系の皇位継承」というところが肝です。天武系においても天武ー草壁ー文武ー聖武という直系継承が基本的な方針だったではないか!というツッコミ、仁明以後も直系でない事例があるじゃないか!というツッコミが入ると思いますし、実際にそうなのですが、ここで想定されているのは平城・嵯峨・淳和の兄弟継承との対比であると同時に、これは出題者側の配慮であると考えています。この限られた字数の中で厳密性を追い求めるときりがなくなりますので、「皇位は直系」と示したのでしょう。嵯峨源氏が提示されていることと関わってきます。

⑵これも承和の変に関わる文章です。承和の変など、9世紀の政争には藤原氏による他氏排斥という意図があることはよく知られていますが、同時に文人官僚の排斥でもありました。文人官僚として最も有名であろう菅原道真の左遷も、娘婿の斉世親王を擁立しようとしたという嫌疑によるものでした(昌泰の変)。これにより有力氏族による太政官独占が進みます。藤原北家と共に嵯峨源氏が入っているのは、「天皇と血縁関係にある」と考えました。他氏排斥の際の論理は、たいてい「親戚の〇〇親王を擁立しようとしている」でした。現天皇と血縁関係にある者が高位に就いていれば、血縁の上では、比較的利害が一致しているはずです。

⑶まず、官僚機構の整備により天皇不在でも政務が回ることが明示されています。そして次に大学別曹の話です。儒教の教養を得て、有力氏族が官僚としての能力を高めました。2020年度の過去問を見た方はあれ?と思うでしょう。儒教の教養は奈良時代でも求められたからです。しかし答えは『新日本史』に書いてあります。奈良時代は、大学を卒業してから出仕するより、蔭位の制を使った方が有利でした。しかし唐風化政策に伴い貴族の教育が義務化されます。大学別曹設置は、官僚が遍く儒教の教養を身につけたことに意義があります。

⑷清和天皇という幼帝の登場は、藤原北家の権力増強の画期であったと同時に、官僚機構の整備を象徴する出来事でした。8世紀以前にあっては、即位候補者が幼い時は女性天皇が中継ぎとして即位していました。それは幼帝では天皇の職務が務まらないことを意味します。しかし清和天皇は9歳で即位し、藤原良房が摂政となることで補完を図りました。資料文によると、清和天皇が譲位すると、(太上天皇は政務に介入できない関係上)藤原基経を摂政に任じたとあります。藤原北家が摂関として天皇の権限を代行する仕組みが整い始めていました。

⑸貞観格式の整備、儀式書の整備が何を示すのかということです。高校日本史の知識で考えると、格式は法制の整備、儀式書は政務の儀式化、唐風化を意味します。lこれだけでも十分に解答になり得ますが、せっかくなのでなぜ貞観格式だったのかを考えてみましょう。この問題の出題者と考えられる大津透先生は『律令国家と隋唐文明』において貞観格式の意義を「唐礼継受の完了あるいは日本的礼制の完成」と「天皇とその周辺の制度化がなされた」と表現しています。この問題のテーマが「天皇とその周辺の制度化」にありますから、貞観格式を資料文において取り上げたのは自然なことでしょう。儀式面は、2019年度の過去問を解いていた受験生ならば困ることはないでしょう。

さて、以上をまとめて解答です。

(解答例)直系の皇位継承が原則となると共に、官人排斥が進んで天皇と血縁にある有力氏族が高官を独占し政争は減少した。唐風化に伴い、彼らは大学別曹で儒教の教養を身につけた官僚となり、藤原北家が摂関として天皇権限を代行できること、法制の整備、政務の儀式化とあいまって、天皇の政務能力に関わらず国政運営が可能になった。(150字)
<構造>
⑴直系の皇位継承が原則となる
と共に
⑵官人排斥が進んで天皇と血縁にある有力氏族が高官を独占し
→政争は減少した。
⑶唐風化に伴い、彼らは大学別曹で儒教の教養を身につけた官僚となり、
とあいまって↓
⑷藤原北家が摂関として天皇権限を代行できること、
⑸法制の整備、政務の儀式化
天皇の政務能力に関わらず国政運営が可能になった。
※「クーデターや争いが減少→安定した体制」という構成です。エビデンスの出し方も、資料文の並びと一致させています。

余談ですが、『詳説日本史』古代部分を担当されている佐藤信先生は既に退官されており、現在の古代日本史の教員(史料編纂所を含まない)は『新日本史』担当の大津透先生のみです。出るから買ったほうがいい、という言い方はあまりしたくありませんが、視点の据え方の面で、『新日本史』の方が過去問研究の際にテーマ理解がしやすいと思います。余裕があれば日本史リブレット『律令制とはなにか』を読んでみると理解が深まるでしょう。

Q.太上天皇制の変質は必要だろうか?

A.クーデター減少の直接的原因として浮かんだのは、自分も太上天皇制の変質でした。奈良時代以降、「皇位をめぐるクーデター」としてまず思い浮かぶのは恵美押勝の乱、平城太上天皇の変でしょう。これらは共に、天皇と太上天皇の対立から生じたものです。そして嵯峨天皇が太上天皇の権限を小さくし、天皇権力が強化される、そしてその裏返しとして外戚の存在感が高まっていく...というのはある程度勉強している人なら知っていると思います。何も指定のない状態で本問の問題文が提示されたら、確実に解答の要素として太上天皇制の変質は入ります。しかし資料文が提示され、まずはそれを反映しなければいけない以上、優先度は低いでしょう。5行だと資料文の反映でいっぱいいっぱいです。字数指定が6行であれば確実に入れます。

第2問

東大日本史の形式を活かし、初見事項に対処させる問題です。こういうタイプの問題は必ず初見事項に関する説明があるので難しく考える必要はなく、そればかりか「初見事項の読解」というワンステップがあるおかげで問題自体の難易度が高くないものが多いので、チャンスだと思いましょう。

A

要求は、「荘園領主が検注を実施しようとした理由」です。まず検注とは何かという説明が⑵でなされています。検注は荘園領主による土地調査で、年貢額を決定するものでした。つまり田地が増えていたら年貢額はその分増え、その額が次の検注まで維持されるということです。この仕組みがわかったら、Aは簡単です。

⑴地頭の荒野開発の話です。最初は「小早川氏」という一例から始まっていますが、最終的には、荒野の開発は当時、全国の地頭が行なっていたのだとわかります。

⑶荘園領主に視点が移ります。検注は荘園領主が変わったときになされたが、検注を拒否する地頭がいたということが示されます。検注を拒否することにどのようなメリットがあるのか、⑵の内容を理解した受験生ならわかったはずです。

この問題は、検注が何かわかっているか確認する問題でしょう。しっかり説明したいところ。しかしどうしても気になるのが⑶「荘園領主がかわった時」という文章です。地頭は現地で好き勝手やっているように見えますが、地頭請でない時は荘園の支配権は荘園領主にあります。それを確認する意味もあったと考えられます。

「年貢収入増加を図った」の部分ですが、「年貢収入増加を図った」という表現と「地頭の年貢未納を防いだ」という表現の二つが考えられます。この問題においては、検注が来なかっただけであり、未納という表現は行きすぎていると考えられますので、解答速報は後者でしたが前者に変更しました。

(解答例)A地頭が独自に田地の開発を進める中、その状況を確認することで年貢収入の増加を図ると共に新領主の支配権を確認しようとした。(60字)

B

Aを受けて、その状況が地頭請所になるとどう変わったか、という問題です。

ここで、Aでは見なかった⑷を見てみます。

⑷地頭請所では、検注の停止が命じられたことがわかります。

問題の要求に正確に答えるためには、地頭請所とそうでない荘園の違いをまず明らかにしなければなりません。まとめましょう。地頭請の説明はなされていませんから、答案では地頭請の内容についても触れなければならないことに注意。地頭請とは、一定額の年貢納入を義務付ける代わりに支配を地頭に委ねるものです。

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検注がなされないということは、新たな開発分の収入がそのまま地頭の収入になるということ。そして土地の支配権が地頭になりますから、荘民を動員することが合法になります。⑴に見えるように、それまでも地頭は、おそらく荘民を利用して開発を進めていましたが、それは「荘園に住む人びとをみずからの従者のように使役した」(『新日本史』)にあたり本来は地頭の本分から外れたものでした。

これをまとめて解答です。最後には、まとめの言葉として地頭が荘園への支配力を強めた旨が必須です。解答の方向性をビシッと決めることが評価につながります。

(解答例)B一定額の年貢納入を課し荘園管理を地頭に委ねる地頭請の下では、地頭は検注を拒否することが可能になると同時に、荘民を動員する正当性を得て開発を進め、財をなして荘園への支配力を強めた。(90字)

要求は「検注や開発との関係にふれながら」ということですから、地頭請を契機に①検注をめぐる状況がどのように変わったか、②開発をめぐる状況がどのように変わったか、の2点に触れなくてはなりません。①については、「検注を拒否することができ、増加分の収入は地頭が得た」ということが容易に指摘できるかと思います。しかし②については難しい。「地頭は開発をして田地を拡大した」では地頭請は関係ありません。Aに見えるように、それ以前から行われていたことですから。東進の速報は「増加した収益が確保できることは開発意欲を高めた」とまとめ、要求に答えようとしています。駿台は、「土地と人の支配を認められた」ことに触れており、一気に①と②に答えようとしています。

ここでは、人(荘民)を支配できるようになったことに触れ、①②両者を包括するものとして地頭の収入増を挙げ、結論につなげました。

<構造>
一定額の年貢納入を課し荘園管理を地頭に委ねる地頭請
↓(の下では)
①地頭は検注を拒否することが可能になる
と同時に
②荘民を動員する正当性を得て開発を進め
①②→財をなして
荘園への支配力を強めた

第3問

近年の第3問は、比較的易しい問題が続いています。今回は、Aは基礎的な知識問題、Bは読めれば解ける問題でした。ただ、Bの読解は、試験場で緊張した状態では難しかったかもしれません。

A

要求は、「17世紀後半以降の幕府財政上の問題」です。⑴⑷では、幕府が諸国から復興費用として「諸国高役金」を徴収し、そのほとんどを復興以外の用途に使った旨が記されています。幕府の財政状況はかなり悪かったことがここからわかります。

それでは、その内容について検討していきますが、これは基本事項です。荻原重秀が元禄金銀改鋳を行なった背景と同じです。『詳説日本史』p201には、このようにあります。

綱吉の時代は、幕府財政も転換期を迎えた。比較的豊かだった鉱山収入は佐渡金山などの金銀の産出量が減少し、財政は収入減となった。そのうえ前代の明暦の大火後の江戸城と市街の再建費用、引き続く元禄期の寺社造営費用は大きな支出増となり、幕府財政の破綻をまねいた。

これをまとめて解答です。この解答例には朝廷儀式の再興も挙げています。

(解答例)A金銀産出量減少による減収に加え明暦の大火後の復興と元禄期の寺社造営、朝廷儀式の再興に伴う出費で幕府財政は破綻していた。(60字)

B

要求は、幕府はどのような方針をとり、それにはどのような問題があったかです。⑵⑶の相違とその理由に注目する、というヒントがありますので、まずは⑵と⑶の違いを考えましょう。


・下流、豊かな足柄平野
・上流からの砂が堆積
・大名に費用を分担させた=手厚い支援
・しかし洪水は繰り返された


・上流、冷涼な山麓の村々
・砂が深く積もった
・支援わずか
・砂を川に捨て、下流に堆積

まず、どのような方針だったか見抜きましょう。上流の村と下流の平野が対比されています。そして平野には支援が集中的に投下され、村への支援は疎かにしていました。財政上、優先順位をつけないといけなかったのでしょう。そしてなぜその優先順位をつけたかというと、「豊かな足柄平野」「冷涼な富士山麓の村々」がヒントになります。石高制のもと、重視されたのは米の生産です。前者は米の収穫が期待でき、後者は期待できない。ゆえに、優先順位をつけるとしたら平野が第一、冷涼な村は二の次になります。これは江戸幕府の判断として至極真っ当でした。

しかし、その方針には問題がありました。⑶「捨てた砂は酒匂川に流れ込み、下流部に堆積してしまった」と⑵「上流から砂が流れ込んで堆積し」がイコールで結べるかどうかが鍵です。下流で必死に除去していた砂は、上流から流れてきたものだったのです。それが見抜けなかったために、結局幕府は無駄な労力と資金を使うことになってしまいました。

これをまとめて解答です。

(解答例)B予算が限られていたため、より多くの年貢収入が期待される下流の平野への支援を優先した。しかし上流で捨てた土砂が下流の洪水の一因となっており、根本的な解決とならず災害が繰り返された。(90字)

この解答例では「年貢収入」という、江戸幕府の対応であることを意識した言葉を入れましたが、合格点を取るためには知識を使わなくても可能でした。冷涼な土地より平野部の方が農業生産が見込めるというのは中学地理の知識でわかることでしょう。見られていたのは、資料文の内容を正しく読み取り、要求に合わせて論理を再構築できたかです。試験場での冷静な思考が求められる問題でありました。

第4問

ついに出たか、という感じの華族です。共に解答のとっかかりを見つけるには難しくなく、ある程度過去問演習を積んでいた受験生は難なく合格点は取ることができたでしょう。第4問は、年々資料が存在感を増してきた気がします。この形式が続くのならば、解きやすい問題が増えていくでしょう。

A

まずは、1869年の華族と1884年の華族の違いを見抜かなくてはなりませんが、ここでさえ知識は必要ありません。リード文に、「1869年に、公卿・諸侯の称を廃し、華族と称すとして誕生した華族」とあり、資料文⑴では華族令の必要部分が抜粋されています。これを見ると、「国家に偉勲ある者」が加わっていることがわかります。

次に意図ですが、この問題は貴族院がテーマになっていることは資料⑴〜⑷によりわかると思いますから、意図は貴族院に関わるものであるはずです。貴族院に国家=明治政府に貢献した者を加えるということは、政府側の人間を加えるということ。当時政府が想定していた、衆議院との対抗が想起できるでしょう。

なお注意したいのが、かつて支配的だった「藩閥政府・貴族院=特権階級、悪」、「政党=民衆の声を反映、善」というような図式は近年見直されているということです。藩閥政府の超然主義は、「不偏不党」という意味合いが強いものであり、国家本位の政策を行うことを目標にしていました。対して当時の政党は、選挙権が地主などの富裕層のみだったために一部の利害を反映している存在であり、国防のために必要な軍事費を拒否し続け、地租の引き下げを要求しました。貴族院は、そのような衆議院を牽制し、構成者の学識を以て国家本位の政策を行うのを助ける、公平な立場が期待されました。ですから貴族院は藩閥政府の言いなりだったわけではありません。初期議会が始まると、政府は貴族院に言うことを聞かせようとしますが、貴族院はその審議権を守ることを重視しました。あくまで貴族院(華族)は国家の擁護者・皇室の擁護者であったのです。(参考:小林和幸「貴族院の華族と勅任議員」『明治史講義テーマ編』ちくま新書)

そのような知見も加えた解答にしました。

(解答例)A明治政府に貢献した者を華族に加えた。彼らが貴族院議員となることで、特定の立場に偏る恐れがある衆議院を牽制する役割を貴族院に期待し、藩閥政府主導の国政運営を円滑にしようとした。(88字)

B

「隠居をして、貴族院議員を辞職した」という行動の意味は資料文⑶⑷で示されています。華族の戸主を辞め、貴族院議員を辞めることで衆議院議員の被選挙権を得ようとしたのです。

ではなぜこのような行動をとったのか。それは、「この時期の国内政治の状況にふれながら」という条件に従えば見えてきます(清浦内閣に言及されているので条件がなくても自明だとは思いますが)。

清浦圭吾内閣は、第二次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で総辞職したことを受けて成立した内閣です。清浦は枢密院議長であり、閣僚も、陸相・海相以外は貴族院から選出しました。これに対し憲政会・立憲政友会・革新倶楽部のいわゆる護憲三派は超然内閣と批判、第二次護憲運動を起こし、衆議院は解散され総選挙に持ち込まれました。そして選挙では護憲三派が圧勝し、加藤高明が首相となりました。

...と、これが第二次護憲運動の概要です。問題となっている時期は太字になっている時期です。元清浦内閣(政友本党)か、護憲三派か、という総選挙に臨むにあたって、高橋は貴族院議員を辞職したのです。

さて、これで意図が見えてくるでしょう。これから高橋は、政党の総裁として、「超然内閣」と対決するのです。自身が貴族院議員だと説得力がないでしょう。

さて解答にあたって考えたいのは、書く範囲です。ここで求められているのは「こうした行動」をとった理由なわけですが、自分は「こうした行動」の中身を
①隠居をして、貴族院議員を辞職
②衆議院議員選挙に立候補
という二つに分けました。それぞれに関して「どうしてか」と問われていると考えたのです。先日の「解答速報」においては

Bは、「隠居をして、貴族院議員を辞職した」ことの意味を説明するか迷いました。⑶⑷で言及されている以上、資料文利用の原則からして使うべきとも考えられますが、⑶⑷がないとこの問題自体が大学受験生に問えるものとして成立しなくなってしまうので、ここではそういう意味での⑶⑷の存在意義だと解釈して、行動の背景に徹した解答としました。

と述べて「隠居をして、貴族院議員を辞職」の理由には一切触れませんでしたが、やはり資料文の内容を解答に反映しないのは気持ち悪さが残ります。解答速報から方向性を修正しました。

(解答例)B閣僚を貴族院から選出した清浦内閣を批判し総選挙に臨むにあたり、護憲三派の一角たる政党の総裁が貴族院議員である事は不利と考えられたが華族の戸主かつ貴族院議員には被選挙権がなかった。(90字)

来年度に向けての学習

今年の問題で感じたことは以下の3点です。

①試験場においては、完璧な答案を作るという意識より合格点の答案をまず仕上げるという意識が大事。

②日頃過去問演習で考察力・記述力を鍛えた受験生が強いという事実には変わりない。

③あくまで教科書の内容から出題されていることが再確認された。教科書(できれば『詳説日本史』と『新日本史』の二刀流)をベースにした学習の大切さを強調したい。


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