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東大日本史過去問解答例(2012~2014)

第三弾です。そもそもの難易度が高い問題(どう考えても試験場で十全な答案が作れないだろうと思うもの)以外は、「書けそうかつ、十全な」答案を目指して作成しました。表現があまりかっこよくなくとも、日本語として不自然でなく、書くべき内容が反映されていれば満点は来ると考えるためです。

東大日本史の解答は割れるものです。他の解答例も参照してみてください。塚原先生「東大の日本史27ヵ年」、野島先生「東大日本史過去問題集」(note)がおすすめです。

2014年度

第一問

A天皇の動向を受けて太政官で審議され、多数決で決められた。構成員は当初畿内豪族の氏上であり、次第に官僚が任じられた。(58字)
B天皇は蔵人を通じて太政官に直接命令を下すことができ、摂関はそうした天皇の権限を代行することが可能であった。天皇と摂関は連携して公卿を指揮し、太政官を基盤に政治を運営したが、人事に関わることや重要儀式については公卿の参加・審議が求められた。(120字)

◯蔭位の制の対象となるのは五位以上官人であり、それは問題文中に登場する大夫(マエツキミ)にあたるという指摘がなされています。氏族制を引き継いだ日本の律令制の性格を象徴するものの一つでしょう。そういった律令制に基づく制度がだんだん変質していくのが、古代史の大きな流れです。

Aは正直書きにくいです。「律令制」はB「⑷の時期」と対比されているのでしょうから「8,9世紀」とわかります。そして「構成員に注目して」との限定がされています。⑵を入れるか迷いましたが、「審議方法を主軸に書いて欲しいけど、構成員も問いたいポイントだから特に条件つけておくよ」という問題だと思ってこの解答にしました。
「天皇の指示を受け」とすると⑶の内容がうまく入らないので、「動向」というニュートラルな単語を選びました。9世紀になると氏族制から官僚制に転換していくので、そこも指摘すべきポイントです。
BはAからの変化であり、Aとの対比です。しかし同時に、定説との対比でもあります。「摂政・関白が大きな権限を持っていた、」というのです。また、摂関の恣意によって任じられているイメージの強い受領も、公卿会議の審議を受けています。⑵では天皇と太政官組織の連携について、⑷では人事のことについて書かれています。ここを活かしつつ、解答です。最後の部分は『新日本史』pp66-67のフレーズを参考にしました。

第二問

乱以前、幕府の守護在京原則により在京した武士は知識人・文化人と交流し、庇護を加えて禅宗文化・公家文化に触れた。武士自身がそうした文化人として活躍することもあり、在京武士は中央の文化の担い手となった。乱を契機にそうした武士が任国に下ると、武士が集住する城下町を中心に文化人を呼ぶなど文化活動を行った。(149字)

◯⑴前提→⑵⑶在京武士に中央文化が根付いた例→⑷城下町に文化が伝播した例
という構造になっているので、それに基づいて解答を書きます。

第三問

A石高制のもと、大名旗本は知行高に応じて家来の武士を軍事力として動員するとともに、村高に応じて百姓を人夫として動員した。(60字)
B出兵は兵糧米の需要を高めて米価高騰をもたらし、都市民衆による打ちこわしを引き起こす恐れがあり、百姓の動員は村の農業経営を悪化させるなど、領内統治に不利益をもたらす恐れがあった。(89字)

◯まずAです。⑴諸大名・旗本に知行高に応じた軍役を課し、武士を動員、⑵大名は村々に村高に応じた夫役が課せられたことが読み取れます。石高というのが大事。指示がどのようなルートで伝わったのか、掴みましょう。
Bは、「幕府の求心力低下」が知識としてまず浮かびますが、付帯条件に注意。「諸藩と民衆の関係に注目して」とあります。⑵⑶と考えあわせて、出兵は民衆に多大な負担をかけることがわかります。なお、民衆は百姓のみではなく、都市民衆も含みます。米価高騰の煽りをうけるのは都市民衆であり、百姓ではありません。

第四問

A憲法発布は日本が欧米と比肩しうる近代的立憲国家であることを意味した。内容面でも、衆議院が予算や法律の審議を担い国民が国政に参与できる可能性が生じたうえ、臣民の権利を保証していた。(90字)
B憲法において、臣民の権利保障には法律の範囲内という条件が付帯していたが、衆議院を通じて法律改正・廃止が可能である。(58字)

◯Aの問題文中「それにもかかわらず」は二通りの解釈が可能です。一つは、欽定憲法であったが、民権派が納得するような条項も盛り込まれていたという解釈。もう一つは、内容に関して議論されることなくとも、憲法制定自体が喜ばしいという解釈です。ここでは、両方について言及しました。大日本帝国憲法は、「君主と臣民の権利・義務を定めたものでなければ、欧米では憲法と認められない」という伊藤、井上らの方針のもとで作られた憲法でした。
B諸条例を廃止できると考えた、憲法上の根拠について問われています。

2013年度

第一問

国内の対抗勢力を平定し、大王家の地位を高めると共に関東から九州までヤマト王権の支配を拡大した。宋に高い官職を求め、東アジア世界の位置付けにおいて朝鮮諸国に優越しようとした一方で、国内では大王の称号を使用し独自の天下を形成した。朝鮮半島の戦乱に伴う渡来人の流入は、国内の技術や文字文化の発展に寄与した。(150字)

◯付帯条件が非常に重要です。古代東アジア世界の仕組みを理解していることが必要になります。
構造としては、(※(n)は参考にした資料文。)

・国内の対抗勢力平定(中央・地方)⑴⑶
→中央:大王家の地位を高める⑶
→地方:関東から九州まで支配を広げる⑴⑵

・宋に高い官職を求め⑴、東アジア世界における地位を上げようとした
↕︎一方で
・大王の称号を使用、天下を治める⑵。独自の天下。

・朝鮮半島の戦乱により渡来人流入。技術や文字文化の導入。⑷

第二問

A自らを蝦夷、外国勢力を従える存在としつつ朝廷に貢納することで、自らの価値を示しつつ朝廷との良好な関係を保とうとした。(59字)
B平家討伐後、源義経、後白河院が頼朝に対抗する動きを見せる中、奥州藤原氏は義経を匿い頼朝政権に対抗しうる恐れがあった。(59字)
C地理面では、東国を平定し、独自に都市鎌倉を整備することで朝廷と距離を置いた。機構面では、朝廷の宣旨に基づいて御家人を守護・地頭に任じており、公的機関としての性格が強かった。(87字)

◯解答の大枠は知識で求められるところが多い問題群です。そこをうまく資料文と合わせて考察することが求められます。

第三問

A征夷大将軍が武士を統制する幕藩体制の維持を図るため、大名には軍事的機能を求め、天皇には君主として朝廷の維持を求めた。(59字)
B戦乱が収まり、武士は大名個人ではなく家に、永続的に仕えるものとされ、儒教を用いて君臣の秩序を説き下剋上の遺風が廃された。武士は統治身分として、官僚としての能力が求められていた。(89字)

第四問

A列強が東アジアに進出する中で、国内の混乱と外圧の両方に対応するため、譜代大名・旗本中心の就任制限があった幕府中枢を変革して実力を重視し、老中に雄藩の親藩や外様大名を、老中の補佐として有能な旗本や陪臣、浪人などを登用することを目指した。(118字)
B橋本は武士中心の国政運営を構想していたが、明治憲法体制下では天皇が統治権をもつとされ、帝国議会の衆議院では豪農層など、財力がある人物は選挙権・被選挙権を持ち国政に参画できた。(88字)

2012年度

第一問

8世紀は、戸籍をもとに徴発された民衆が軍団に編成され、地区ごと動員された。蝦夷征討にも動員されたが人民の大きな負担となって浮浪・逃亡が相次ぎ、8世紀終盤には軍団制の実施が困難となった。代わりに東国有力者からの志願による少数精鋭の健児制が採用され、蝦夷・大陸との最前線を除き軍団は廃止された。10世紀には中央の軍事貴族を地方の動乱の鎮圧に派遣する方式に転換した。(179字)

第二問

A⑴は院が中下級貴族の財産を背景に、自らの権勢を象徴するため造営した。⑵は民衆の信仰の形として集めた財産で造営した。(57字)
B寺院での修行を重視する旧仏教に対し、念仏を唱える易行だけで、誰でも救われるという教えだった。旧仏教側は朝廷に訴えて新仏教の弾圧を図る一方で、法然の新仏教が広まっていた鎌倉武士に対して布教する、社会事業を行うなど支持基盤の拡大に努めた。(118字)

第三問

A村は、自立的な共同体かつ百姓結集の単位として、年中行事や農業を村内で同時期に行うため個々に休日を定めた。若者組の休日要求に対しても、村の寄合にかけられて村全体の方針が決定された。(90字)
B農村に貨幣経済が浸透し階層分化が進む中、博打の流行や奢侈品の消費が進むことでその傾向が強まり幕府の年貢収入が減ること。(60字)

第四問

A日露戦争で利権を獲得した南満州には経済的進出が進み、大戦景気の時代にその傾向は強まった。満州事変で満州国が成立すると、昭和恐慌で困窮した農村の救済策として政府が移住を推奨した。満州以外の中国・香港は日中戦争の進展に伴い日本軍が占領した。(119字)
B朝鮮戦争で米とソ連が対立したため一時停滞したが、休戦で次第に再開し、日ソ共同宣言で国交が正常化されるとほぼ完了した。(60字)


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