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憲政の常道(1924~1933)は議会政治と言えるのか②-政党自身における問題-

 前回、「憲政の常道(1924~1933)は議会政治と言えるのか①-制度上の問題-」(※1)においては、政党政治を阻む存在について述べた。今回は政党それ自体、特に立憲政友会(以下「政友会」)、憲政党・立憲民政党(以下「民政党」)を中心に政党政治を確立できなかった点について述べていきたい。

議会政治軽視の体質

 議会政治が確立されるためには、当然民意に基づいて選出される議員で構成される衆議院を中心とした議会によって政治がなされるという理念が主要政党である政友会、民政党両党に共有されることが必要である。しかし、以下に示す通り、議会中心主義の理念は政争の具によって軽視される傾向が強かった。

 民政党は1927年結党時の党綱領において「国民の総意を帝国議会に反映し天皇統治の下議会中心政治を徹底せしむべし」という理念を掲げた。飽くまでも「天皇統治の下」という条件付きの議会中心主義なのだが、これについて当時の与党政友会内閣で内相にあった鈴木喜三郎は議会中心主義を日本の国体(天皇を主権者とする政治体制)と相いれないものであると非難した。鈴木自身は世論の批判を受け、1928年の初の普通選挙による総選挙後に内相を辞任をすることとなるが、これについては一人鈴木のみが行っていたものではないとして粟屋憲太郎は次のように評する。

 この鈴木声明にみられるように、政友会はともすれば民政党にダメージを与えるために、「国体擁護」を名分とする攻撃を安易に乱用し、議会中心政治を離れて特権勢力と結び政党政治を内部から崩すきっかけをつくっていった(粟屋憲太郎「昭和の政党」小学館 P49)

 しかし、議会中心主義を強調した民政党も「天皇統治の下」を強調する行動に出た。1928年に調印された「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)の第1条「人民ノ名ニオイテ厳粛ニ宣言スル」という文言について、明治憲法13条に「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」とあり、条約を締結するのは天皇なのに人民の名において宣言するのは憲法違反であるとして政友会内閣を攻撃した。結局、田中内閣は「人民ノ名ニオイテ」は大日本帝国では適用しないとすることで調印にこぎつけた。民政党は議会中心主義を掲げながら、政争の具のために議会中心主義の理念を遠ざける行動に出た。目先の権力闘争に囚われ、議会中心主義を政党自体が軽視するのであれば、当然議会に基盤を置くべき政党自身が自壊していくことになる。

政党内部における非民主的体質

 政党は議会を基盤に政権を獲得することを前提としている以上、常に選挙を通して評価されることを余儀なくされるのであり、そうした選挙での信任を得るにふさわしい体質になるためには政党の内部が民主的に運営されなくてはならない。しかし、政党が民主的な体質からほど遠い場合、内部での意見を多元的に反映することはできない。以上の観点から政友会、民政党について考察する。

政友会の体質

 そもそも政友会は結党当初において反政党を前提とした政党であった。政友会の初代総裁は伊藤博文だが、伊藤は政友会を国家の利益のために存在すべき存在とみなしていた。そのため伊藤は党員に対し、党首である総裁に絶対的に服従することを求めた。党組織に関しても、総裁選出の方法は規定されず、党運営に必要な組織はすべて総裁が決めるとされていた。そこからして政友会の非民主的体質をうかがい知ることができる。

 また、平民宰相と呼ばれた第3代総裁の原敬は首相就任当時の元老山縣有朋との関係が深く、政党政治を妨げる勢力に協力することで自らの権力基盤を確立した。原が普通選挙法に対して否定的な見解であったことは高校の歴史教科書にも記載されているところであるが、山縣に普通選挙尚早論を唱えたことで山縣の信任を得たとの指摘がある。(※2)

 上記以外にも、政友会は森格をはじめ親軍的な政党人を抱えてるなど、軍部を統制するよりも軍部との癒着、妥協する議員も少なくなかった。現に第5代総裁田中義一は陸軍の出身の人物である。田中は軍人だった経歴を利用し、在郷軍人を政友会の地盤にするべく工作した。このことは、在郷軍人が国会議員という形で政党に影響力を行使することにつながり、政党における軍部の影響力を強める結果となった。また、前述した鈴木喜三郎は政党内閣に敵対的な枢密院議長平沼騏一郎と組んで、台湾銀行救済を求めた憲政党内閣の倒閣に協力をするなど議会政治を阻む勢力との親密性が強かった。(※3)以上のような反議会主義的な体質を政友会が持っていたことは議会政治を阻害させる要因となっていたと言える。

民政党の体質

 民政党は結党時に自党の正統性、ルーツを伊藤博文と対立して下野した大隈重信が結党した立憲改進党に求めた政党である。前述通り天皇統治の下という条件付きながら議会中心主義を強調したことや、党則上は党の幹部である総務委員を政友会と異なり議員・前議員の互選としており、政友会と比較すると進歩的な傾向で、党組織も民主的な手法を採り入れている点では少なくとも建前上は近代政党の体裁を整えようとしたことをうかがい知ることができる。

 ただ、実際には党則で公選となっている役職も党大会で総裁指名一任という形で総裁によって決められていた他、党の主要な役員は総裁の使命によるとされていた。(※4)また、民政党は憲政会と護憲三派内閣時代に敵対した政友本党との合同によってできた政党であり、結党当初から数合わせによって成立した側面もあった。旧政友本党総裁であった床波竹次郎が権力追及のため自身の腹心とともに離党し、政友会に復党するなど結党当初から波乱含みの要素を持っていた。

 幣原協調外交に象徴されるように、民政党の外交は対中国における強硬外交を否定するイメージが強いが、幣原自身は日本の軍事力を背景にした満蒙既得権の放棄を否定している。また、満州事変以後は中野正剛、永井柳太郎に見られるように親軍的傾向を強める議員も見られるなど(※5)、軍部の方針を支持する議員が続出している。軍事面、満蒙権益における本質的な側面は政友会とさほど違いはない。政友会=保守、民政党=進歩・リベラルとする説も見られるが、前述の不戦条約での「人民ノ名ニオイテ」への反発も踏まえると、そんなに単純に定義づけられるものではないことがわかる。

 以上、政党自身の問題について触れてきた。次回は、今回触れることができなかった憲政の常道それ自体の慣例にある問題点、余力があれば無産政党について検討をしたい。(来週は別のテーマを取り上げる予定です。)

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(※1)

(※2) 井上寿一「政友会と民政党」中公新書 P15

(※3) 粟屋憲太郎「昭和の政党」小学館 P37

(※4) 粟屋憲太郎「昭和の政党」小学館 P184

(※5) 粟屋憲太郎「昭和の政党」小学館 P279

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