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東京オリンピック汚職の陰で-平尾剛のアスリート批判-

おことわり

 私、宴は終わったがのスタンスは原則として刑事事件における被疑者の実名は公表するべきではないという匿名主義です。ただし、スウェーデンにおけるプレスオンブズマンでの公人に対しては実名主義を採るという基準に基づき、公人がその地位を利用して起こした犯罪(疑いも含む)については実名主義であるべきと考えています(※1)。

 今回の東京オリンピック汚職事件については、被疑者が組織委員会の元理事とみなし公務員であり、公人としての地位を利用した汚職事件であることに鑑み、実名で記載することとしました。以上、よろしくお願い申し上げます。

東京オリンピックを巡る汚職の背景

 東京オリンピックを巡る汚職について連日報道されている。統一教会の問題がより深刻であると判断されるためかあまり目立たないが、組織委員会の元理事高橋浩之はAOKI、KADOKAWA、大広、ADK、サン・アローと東京オリンピックのスポンサー関係の企業から幅広い形でわいろを受け取ったとされており(※2)、決して軽んじるべき問題ではない。

 オリンピックを巡る腐敗構造は今回だけのことに限らない。フアン・アントニオ・サマランチがIOC会長に就任し、ロサンゼルスオリンピック以降商業オリンピックと化したことは有名である(※3)。また、今回の東京オリンピックを巡る汚職については、元理事の來田享子がオリンピック組織委員会は官僚主義的で上下関係が厳しく、責任の所在が不明確であったことを指摘した。その上で、次回2024年フランス・パリオリンピックで組織を外部の第三者が監視することで汚職、腐敗を防止するチェック体制を確立することを踏まえ、パリオリンピックの姿勢に倣うべきであると主張する(※4)。

 これらの意見も東京リンピック汚職を考える上で大切なのだが、そもそも論として、東京オリンピックの当事者であるアスリート、OBが汚職問題についてなぜ口をつぐんでいるのかという疑問が残る。新型コロナの蔓延にもかかわらず、東京オリンピックを強行して開催したことについても元柔道選手でJOC理事の山口香(※5)などの一部例外を除けば、ほとんどスポーツ界から東京オリンピックの強硬開催について意見が出ることはなかった。今回の東京オリンピック汚職について声を出さないことも含め、日本スポーツ界の事勿れ体質を厳しく批判する元アスリートがいる。元ラグビー日本の代表選手で現在神戸親和女子大学教授でスポーツ教育学を教える平尾剛である。

平尾剛の日本人アスリート批判

 平尾は今回の汚職事件でアスリートが活躍する場であるオリンピックが汚されたと指摘したうえで、それにもかかわらず、当事者であるスポーツ界やアスリート本人から社会状況を鑑みた発言がほとんど発信されていないとして、アスリートに対し以下の点を問題視する。

 今回取り上げるのは「アスリートの社会性」である。とりわけ日本人アスリートがいかに社会とつながっていないかを、先の東京五輪は白日の下に晒した。(※6)

その上で、政治的発言を制限するIOC通達や、スポンサー、競技団体への配慮やそれに伴うかん口令があった可能性を考慮しても、アスリートとして意見を発信するのが社会に影響を与える者の責務であるとして次のように述べる。

スポーツで国民に感動や勇気を与えられるという気概があるのなら、それと同じく社会的な発言も厭わないのが取るべき態度であるはずだ。オリンピックが、スポーツ界を飛び超えて社会的なイシューとして認知されている以上、他ならない当事者として自らの考えを表明しなければならなかった。
 しかしそれができなかった。日本人アスリートには社会的な発言をする者が極めて少なかった。(※7)

そしてこのままの状態が続けば、2030年で札幌オリンピックが開催されたとしても、アスリートは時の権力に利用されて、今回の東京オリンピック同様の結果になるとして憂慮する。

平尾剛の日本におけるスポーツ構造への批判

 日本のアスリートが主体性を失っている背景には何があるのだろうか。平尾は競技力にのみ秀でていればいいという体質、理不尽さや無理難題に耐えること、周囲の期待に応えることが運動部をはじめとした若年層のスポーツにみられるとして、アスリートが幼少期から狭い世界に囲まれてしまっているという。

 平尾自身もラグビー引退後に通常社会人が築くだろう人間関係のスキル、社会常識、一般教養に欠けていたことに触れ、自分は不勉強で無知なのに自意識だけは高かった鼻持ちならない人間だったと振り返る。そうした自身の体験を踏まえ平尾は、アスリートは競技にだけ集中することで起きる視野狭窄に陥るべきではなく、スポーツコミュニティとは異なる社会の論理に自身を位置づける視点を持つべきとして、次のように述べる。

社会から注目を浴び、その発言に影響力があるいまだからこそ積極的に行動すべきであると。それができれば現役時代と引退後がシームレスになり、セカンドキャリアの選択肢もまた広がるだろう。
また、然るべき社会性を身に付け、おかしなことにはおかしいと声を上げるアスリートが増えればスポーツは変わるはずだ。主催者やスポンサーはもちろん、社会は実力も人気もあるアスリートの声を無視することができないからだ。(※8)

さまざまなしがらみがあることや、体育会的体質によって上の命令には逆らえない日本のスポーツ界の体質を肌身を持って体験し、私たち以上に十分スポーツ界で声をあげることの難しさを認識しているだろう平尾がそれでもあえてアスリートに声をあげよと強調するのは、それこそ本当の意味でアスリートたちを心配し、信じたいからと思ったのは私だけだろうか。

平尾剛が日本のスポーツ界、私たちに願うこと

 平尾は日本のスポーツ界の構造やスポーツ界で権力を握っている人物にも厳しく批判をする。平尾は日本ラグビー協会が協会理事であった谷口真由美をけん責処分としたところに日本のスポーツ界には旧態以前とした体質と年功序列の時代錯誤があると批判する(※9)。また、東京オリンピック汚職事件についてスポーツ庁長官の室伏広治、JOC会長の山下泰裕が積極的に声をあげようとしない姿勢を厳しく批判する(※10)。

 私たちの側も反省すべきことがある。平尾は日本社会はアスリートにある種の爽やかさ、健全性、フェアネスといったイメージとしてのアスリートを求める傾向にあるとしている(※11)。平尾はそうした世間が求めるアスリートのイメージ像をアスリートの側が利用することとなり、アスリートのイメージ像が政治利用や商業戦略につながることへの問題を懸念する。私たちの側も本当の意味でスポーツを価値あるものにするのであれば、アスリートが主体的に行動できるために何が必要なのか省みるべきではないだろうか。

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(※1) 浅野健一「新版 犯罪報道の犯罪」「定着する匿名報道主義」 P383 新風舎文庫より

 民主社会の報道機関の重要な使命の一つは、社会における権威や権力者を批判的に観察することにある。だから公的な任務の適正を疑われるような過ちや不道徳な行為を犯した政治家、高級官僚、労働組合幹部、企業役員などの氏名は公表されるべきである。一般市民を支配する立場にある人たちが自己の職務に関係して市民の利益に反する行為をしたときには、それを知らせる必要があるからだ。ただしその場合も、本人に弁明させ反論の機会を与え、まちがっていれば訂正し謝罪することは当然だ。
 それに対して、公的活動をしていない一般市民に関しては、犯罪の種類にかかわらず、氏名、写真、出身地などを明らかにする『明白な社会的関心』が存在すると認められることはごく稀である。氏名の発表をすれば、刑務所で服役してからの社会復帰を困難にする。本人だけでなく家族や友人に苦痛を与える。私のところへも家族からしばしば苦痛の申し出がある。子どもたちは級友から白い眼で見られ、つらい思いをする。犯罪に対する処罰は法廷で下されるのであり、新聞がさらし者にするという罰はあってはいけない。

(※2)

(※3)

(※4)

(※5)

(※6)

(※7) (※6)同

(※8) (※6)同

(※9)

(※10)

(※11) (※6)、(※9)

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