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「日向の匂い」-日本人が歩んできたキリスト教の歴史(前編)-

 今回の記事は私が教会で行った信徒証言を元にした記事となっております。前編の今回はキリスト教伝来からキリスト教禁令までに関する内容になります。

聖書引用個所

[マルコによる福音書] 14章66節~72節
14:66ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、14:67ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」 14:68しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。14:69女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。14:70ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」14:71すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。 14:72するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

イントロダクション

 おはようございます。私が、今年(2018年)の世相で最も印象に残ったのはオウム真理教の元幹部7人の死刑執行です。日本の報道における犯罪を扇情的に扱う姿勢は、死刑執行をリアルタイムで実況するところにまで行きました。死刑執行に関する興味本位のテレビ報道およびそれに共感をする状況を目の当たりにしたとき、私はマタイによる福音書7章1節から2節、ローマ人への手紙12章19節(※1)が脳裏をよぎりました。

 キリスト教信仰に関連したことでは、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の形で潜伏キリシタンの歴史に関連した歴史的建造物が世界遺産に登録されたことが印象に残りました。

 本日の証言について、オウム、死刑に関する問題と、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」どちらにするべきか正直迷いました。オウム、死刑に関する問題について、証言することは、信仰の上においても神学上において大切なことであると考えます。ただ、いかんせんこの問題に対して、自分の不勉強さゆえ、まだ信仰上、神学上、私が証言をできる段階にはないと感じました。

 そこで、本日は潜伏キリシタンに関連した歴史的建造物が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、世界遺産に登録されたことを踏まえ、日本人とキリスト教という観点から潜伏キリシタンが辿ってきた苦難の歴史を中心にキリスト教信仰のあり方についての言葉を証したいと存じます。

カトリックの日本伝来

 1517年、マルチン・ルターは贖宥状をはじめ当時堕落していたカトリックを批判した「95か条の論題」を発表しました。マルチン・ルターの抗議をきっかけにドイツでは宗教改革が起こります。また、1541年にジュネーブではジャン・カルヴァンが主導する神権政治の形による宗教改革が行われます。これらの動きは、14世紀におけるヤン・フス、ジョン・ウィクリフによるカトリック批判と相俟って、カトリックに対抗宗教改革という形で自己改革を迫ることになりました。そのカトリック対抗宗教改革という形の自己改革において原動力を果したのがイエズス会です。そのイエズス会創設メンバーの一人が1549年に初めて日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルです。したがって、16世紀の日本にイエズス会が布教活動に来た背景には宗教改革が遠からず関係していると言えます。

 宣教師が社会事業、教育機関の創設などと併せる形で布教活動を行ったことや、ヨーロッパの技術、文化を取り入れるために宣教師を活用したいという戦国大名をはじめとした有力者の思惑から、当時の日本ではキリスト教は一定の力を持つようになりました。片岡弥吉氏の説によると1597年の段階では30万人のクリスチャンがいたそうです。また、日本の人口は鬼頭宏氏の説では1600年の段階で日本全体の人口は推計で1227万3000人ということであり、鬼頭氏、片岡氏の説を前提とすると当時は2.4%がクリスチャンということになります。当時は統計方法が未発達であり、クリスチャン人口のデータの信憑性に問題があること、人口についても推計によるものであり諸説あることを考慮しても、当時のキリスト教の影響力はおそらく現代よりも強かったのではないかと思われます。

禁教令とキリシタン弾圧

 しかし、カトリックの布教がカトリック諸国による日本侵略の一手段として用いられているのではないかとの疑念、キリシタン大名の存在が潜在的に権力者自身への脅威になるとの警戒感が強まると、日本におけるキリスト教は厳しい状況に立たされます。豊臣秀吉のバテレン追放令、二十六聖人の殉教は有名ですが、徳川幕府は本格的なキリスト教徒に対する禁教を行うようになります。

 徳川家康の禁教令は、カトリック諸国の日本侵略への疑念、キリシタン大名に対する脅威に加えて、新教国出身のウィリアム・アダムスなどの外交顧問の影響を受けていることや、中央集権化による権力の安定上、キリシタンを治安上不安定要素とみなしたことが取り締まり、弾圧の強化の原因になっていると思われます。そのため見せしめ的にキリシタンや宣教師を処刑した秀吉のやり方とは異なり、宣教師の追放、拷問、処刑、信者への棄教の徹底による拷問、処刑などが容赦なく行われるようになります。また、踏絵、寺請制度、五人組による相互監視によってキリシタンの発見、締め出しを制度化するようになります。

 これらの動きに対し、キリシタンは潜伏キリシタンの形で対抗をします。彼らは表向き寺請制度を受け入れ、檀家の一人という形を取り、踏絵を踏みました。しかし、心の中ではキリシタンでありたいと思うわけですから、その苦しみというのはどんなものなのかと感じずにはいられません。踏絵を踏んで家路に帰る途中の苦しみ、家に帰った後に神に対し赦しを願い、自らを罰する行為、また、ときに密告により役人によって受ける粛清が行われるかもしれないという恐怖心、緊張感を持ちつつも信仰を守り抜こうとする行為、その一つひとつの痛ましさは安穏と生きる現代の日本に生きるキリスト教徒はどこまでそれを理解できるでしょうか。こうした彼らの葛藤は1865年にフランス人のプティジャン神父と浦上の潜伏キリシタンとの接触まで続きます。

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  いかがだったでしょうか。後編ではプティジャン神父と浦上の潜伏キリシタンとの接触について触れたいと思います。

皆が集まっているイラスト1

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(※1)〔マタイ福音書〕 7章1節~2節
7:1 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。7:2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

〔ローマ人への手紙12章19節〕
12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。


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