見出し画像

もうひとつの9.11-チリ・クーデターについて考える②-

 前回チリ・クーデターが起きた9月11日を踏まえ、クーデターによって崩壊したアジェンデ政権成立の背景をまとめたが(※1)、今回はアジェンデ政権3年間の政権運営やそれに対する内外の反応について述べる。

アジェンデ政権成立阻止に向けた動き

 アジェンデ政権の誕生は当初から波乱含みであった。アメリカはアジェンデが大統領に当選により、銅鉱山をはじめとしたチリに展開しているアメリカの主要企業が国有化されることに伴う経済的損失、アジェンデの対米自主路線が他のラテンアメリカ諸国にも拡がり、ラテンアメリカでのアメリカの影響力が低下することを懸念した。そのため、当時のニクソン政権はアジェンデが大統領当選阻止に向けてあらゆる妨害工作を行った。

 大統領選挙においては、アジェンデの社会主義路線をソ連と同様であるとしたネガティブキャンペーンを行うべく、ソ連によって蹂躙されたプラハの春に関するポスターをばらまいた。こうした妨害活動に要した費用は39万ドルに及んだという。(※2)

 しかし、大統領選挙での得票順位ではアジェンデが1位となった。過半数に達していなかったため、当時の憲法の規定によって1位と2位の候補による国会での決選投票が行われることとなったのだが、そこで2位となった保守派で国民党のホルヘ・アレサンドリを大統領にするべく中道政党のキリスト教民主党議員に対する買収工作を画策したが、結局失敗に終わった。議会工作に失敗すると、チリの右翼、それに共感する軍隊内の勢力をそそのかし、軍の中立と立憲主義の順守を理念としたレネ・シュレイダー陸軍司令官を暗殺し、軍によるクーデターを画策した。(※3)シュレイダー暗殺はチリ国内の世論の反発を招きこちらも失敗に終わった。アジェンデは大統領就任演説に際して、シュレイダー暗殺事件に触れ、シュレイダーは内戦阻止の犠牲になったと言明した。(※4)

アジェンデ政権の政策

 以上のような情勢の下でアジェンデは大統領に就任したのだが、アジェンデは主要企業の国有化や大地主からの土地の収用といった社会主義政策だけではなく、社会主義政策の理念である社会的弱者の生活を保障するための政策を行った。具体的には、物価凍結、賃金・年金の引き上げ、緊急住宅計画の実施、教育施設の拡充、機動隊の解散、公共事業拡大計画の実施、15歳以下の子どもへのミルクの無料給付など、社会保障や公共のインフラ整備といった人びとの生活に必要な政策が挙げられる。とりわけ、社会福祉政策についてはほぼ国民の合意が得られ比較的スムーズに実施されたという。(※5)

 従来の政権とは異なる社会的弱者を重視した政策は民衆から大きな支持を獲得し、大統領就任の翌年1971年4月の地方選挙では与党人民連合は1,377,715票を獲得した。この得票数はアジェンデの大統領選挙での国民投票における1,070,334票を大きく上回っている。対するキリスト教民主党は大統領候補ラドミロ・トミッチが獲得した821,801票から729,398票へ、国民党は大統領候補アレサンドリが獲得した1,031,159票から513,874票へとそれぞれ得票数を減らした。(※6)チリ国民がアジェンデの政策を支持したことは明らかであった。

アジェンデ政権への妨害工作および同様

 しかしこのような民意の表れがあっても、アジェンデ政権の政策はアメリカや既得権益を保持する特権層にとっては自身の権益を脅かすものであり、一日も早いアジェンデ政権の崩壊を望んだ。彼らは政権を崩壊させるためにはあらゆる手段に出た。

 アメリカはチリへの融資の停止を行い、チリ経済を締め上げた(※7)。その一方で、チリ国内での軍事クーデターを促すべく、チリ軍部に対して500万ドルの信用供与を行うなど経済的支援を惜しまなかった。(※8)銅の国産化に抵抗したケネコット社はチリの主要産業である銅の暴落を図るべく銅の大量放出を行い銅の価格を下落させたほか、チリのヨーロッパでの銅販売の阻止を画策した。(※9)

 アジェンデ政権への妨害、抵抗を行ったのはアメリカだけではなかった。保守政党の国民党はもちろん、党内で右派の力が強まったキリスト教民主党でも次第に反アジェンデの姿勢を明らかにするようになっていく。また、チリ国内の流通の要であるトラック業界は全国ストを行いチリ経済に打撃を与えた。(※10)国の根幹産業である銅産業においても事務系、技術系を中心としたデモが発生するなどアジェンデ政権はそれらの対応に追われた。(※11)

 しかし、最も深刻なのはこのような状況において、アジェンデ政権内で政権の方向性を巡って与党人民連合内で路線対立が起きていたことだった。チリ社会党は中道政党であるキリスト教民主党の対話は革命を妨げるものであるとして否定的な態度を示したのに対し、チリ共産党は人民連合が結集すべき勢力であるチリ共産党が定義するアメリカ帝国主義と同盟者を除く国民の90%の支持を獲得することが必要であるとしてキリスト教民主党との同盟関係を模索を主張した。(※12)最終的には、アジェンデ政権はチリ共産党の方針を採用し、複数回にわたりキリスト教民主党との対話と交渉を行うのだが、右傾化したキリスト教民主党との交渉は失敗に終わる。

クーデターへ

 チリ国内の社会情勢が不安定となる中で行われた1973年3月の総選挙ではCIAが選挙資金を反アジェンデ勢力に注入したにもかかわらず、(※13)人民連合は1,589,025票を獲得し、1971年の地方選挙よりも得票数を伸ばした。一方国民党、キリスト教民主党を中核とした保守中道の民主同盟も前述のCIAの援助のほか、地方選挙のときと異なり統一した選挙活動を行ったため、2,003,047票と得票数を伸ばした。(※6)とは言え議席数では上院50議席中が人民連合19議席に対し、民主同盟が30議席、下院150議席中人民連合63議席に対し、民主同盟が87議席となり、野党は大統領弾劾に必要な議会の3分の2を占めることができなかった。業を煮やした反アジェンデ勢力は軍部によるクーデター以外にアジェンデ政権を倒せないと判断し、軍部に対して本格的なクーデターの画策を行うようになった。

 こうした動きに対し、アジェンデ政権側も軍部への反政権側の軍部への工作を阻止するべく、暗殺されたシュナイダーの後任であるカルロス・プラッツ陸軍司令官ら軍部の立憲主義派を閣内に加えるなどして軍部によるクーデターを起こさないよう対応していた。しかし、軍の内部ではプラッツら立憲派の排除を画策すべくCIAとともにプラッツの暗殺ないし拉致を試みる計画まで策定した。(※14)プラッツ暗殺ないし拉致についての計画は実行されなかったものの、プラッツに対する右翼、軍部内の中傷、反発に対する動きはすさまじく、プラッツは陸軍総司令官辞任に追い込まれた。(※15)プラッツの後任に選ばれたのは911クーデターの首謀者でこの後チリの独裁者として君臨するアウグスト・ピノチェトであった。

 ピノチェトは当初立憲派としてアジェンデに対してシュナイダー、プラッツ同様に忠誠を誓っていた。しかし、最後の最後で裏切り、911クーデターでアジェンデを自殺に追い込んだ。その後のピノチェトによる独裁政治の悲劇は言うまでもない。次回はクーデター後のチリとピノチェトがその後どういう末路をたどったかについて触れたい。(次週は別のテーマを投稿する予定です)

皆が集まっているイラスト1

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

(※1)

(※2)  安藤慶一「アメリカのチリ・クーデター」選挙に干渉するニクソン政権

(※3) 岡倉古志郎・寺本光朗編著「チリにおける革命と反革命」より寺本光朗「アメリカ帝国主義の世界戦略とチリの軍事クーデター」P212

安藤「前掲」 陸軍総司令官シュナイダー暗殺事件

(※4) 安藤「前掲」アジェンデ就任

(※5) 岡倉・寺本編著「前掲」より後藤政子「人民連合政府の三年間」P57

(※6) 岡倉・寺本編著「前掲」より後藤政子「人民連合政府の三年間」P74

(※7) 安藤「前掲」金融封鎖による報復

(※8)  安藤「前掲」米国による対チリ軍部支援

(※9) 安藤「前掲」国営銅産業を妨害するニクソン政権

岡倉・寺本編著「前掲」より寺本光朗「前掲」P216

(※10) 安藤「前掲」トラック所有者スト、社会混乱、「チリをもっと苦しめろ」

岡倉・寺本編著「前掲」より後藤「前掲」P67

(※11) 安藤「前掲」蔓延するストライキ

岡倉・寺本編著「前掲」より後藤「前掲」P83

(※12) このほか、MIR(左翼革命運動)は法手続きを無視した土地収用を行うといった実力行使をしたほか、チリ軍に代わる独自の武装組織を画策するなど民主的手続きを無視した行動を行うなどしたため、中間層の不信を増幅させた。

(※13) 安藤「前掲」1973.3総選挙へ向けて:民間の資金注入

(※14) 安藤「前掲」勢力を強める軍内クーデター派

(※15) プラッツはチリ・クーデター後の1974年、亡命先のアルゼンチンでピノチェト政権の手によって暗殺された。

サポートいただいたお金については、noteの記事の質を高めるための文献費などに使わせていただきたくよろしくお願い申し上げます。