見出し画像

もうひとつの9.11-チリ・クーデターについて考える③-

 衆議院総選挙に関する記載を優先させたために、チリ・クーデターについてのnoteが中途半端な形になってしまいましたが、今週チリ・クーデターについての最終記事を書きます。

クーデター後の弾圧

 アジェンデを自殺に追い込む形でアジェンデ政権を崩壊させたピノチェトは軍事評議会を設置し、そのトップに就任。翌年1974年には大統領に就任し、1990年に退任するまで自らにとって不都合な人物を次々に粛清、弾圧していった。

 反アジェンデ勢力の中心であった保守政党やキリスト教民主党反アジェンデ派は軍事クーデターを利用して権力を奪おうとしたが、ピノチェトは国会、地方議会を解散し、すべての政党を非合法化したため、彼らの思惑は外れた。

 親ピノチェト色の強い政治家、政党に対してもこのような姿勢であったから、アジェンデ政権の関係者やアジェンデ政権を支持していた人たちへの弾圧は過酷なものであった。労働者統一中央組織は非合法化され、右派を除くメディアは閉鎖され、25%から60%にわたる大学教授、学生が大学から追放された。(※1)とりわけ、アジェンデ政権の高官、左派の政治活動家、労働組合の指導者、親アジェンデとみなされたスラム街の人たちが犠牲となった。

 弾圧に際して大きな力を発揮したのがクーデター直後に創設した秘密警察DINAであった。DINAはピノチェトに直属する機関であったため、ピノチェトに対する反体制派のみならず、ピノチェトに異議を唱える政権内の反主流派をも取り締まる力を持ち、ピノチェトの権力の源泉となった。このDINAによって多くの人々が犠牲となったが、その中の一人がチリ・スタジアムで処刑された歌手で演劇人のビクトル・ハラであった。ハラの妻によると、遺体は両手を打ち砕かれ、顔をずたずたに切り裂かれていたという。また、生前録音していたマスターテープも破壊し、ハラの存在、功績自体も否定するなど徹底した弾圧ぶりであった。(※2)

 ピノチェトの政治体制に反する者への拷問は悲惨を極めた。目、鼻、口、膝、敏感な陰部に狙いを定めて繰り返し打撃をしたという物理的な暴力が行われたほか、爪の下に針を差し込みそこに電流を流すといった電気ショックを行うなどした。女性に対しては性的に辱める拷問も行われていたという。直接的な拷問以外にも、2m四方の部屋に押し込められた上、トイレに行くことも許されず汚物をそのまま垂れ流すといった人間の尊厳に反する行為も行われていた。(※3)

ピノチェト政権の経済政策

  反アジェンデを標榜した政権がアジェンデの政治姿勢と真逆に自由と民主主義を弾圧したことは今述べた通りであるが、経済政策についてもアジェンデ政権とは真反対の政策を採用した。

 銅鉱山の接収に対して補償がないと反発をしていたアナコンダ社に対しては、接収の代償として6690万ドルをアナコンダ社に支払った。また、ITT社に対しても1億2520万ドル支払うことで和解をした。(※4)

 経済政策については新自由主義学派のミルトン・フリードマンの弟子で俗に「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる経済学者の政策が採られた。彼らの経済学は反ケインズ主義に基づくものであり、政府による規制、貿易障壁を資本主義の理念に反するものであるとして、政府による規制撤廃、徹底した民営化、財政縮小による自由放任経済を理想とするものであった。ピノチェトは彼ら「シカゴ・ボーイズ」を経済顧問とし、彼らの進言に沿って国営企業の民営化、関税の引き下げ、財政支出の削減、価格抑制の廃止などを行った。

 その結果、クーデターの翌年1974年にインフレ率375%を記録し、安価な輸入品が流入したため失業率も増加した。シカゴ・ボーイズは迅速な対応をしていないことや理論が徹底していないことに原因があるとし、M・フリードマンは一種のショック療法が必要であると強調したため、それらの意見に沿う形でピノチェトはシカゴ・ボーイズのリーダー的存在を経済相に任命した。結果、失業率はますます悪化し、一般庶民はパンを買うのにも苦労する有様となったのだが、失業率が30%を超えどうにもならなくなった1982年までピノチェトはシカゴ・ボーイズを政府の要職につけていた。(※5)

 ピノチェト政権を容認していたアメリカ政府もチリ国内での民意の不満の高まりやアメリカ議会からのピノチェト政権の軍事独裁に対する批判の声が出始めると、アメリカ政府はピノチェト政権に民政移管を行うよう求め始めた。こうした内外からのピノチェト軍政への批判に抗しきれないと判断したピノチェトは1988年、自身が大統領の任期を8年間延長することの是非を問う国民投票を行うことで自身の権力の正統性を狙った。ピノチェトの思惑とは反対にチリの民意は8年間の延長を否決したため、ピノチェトは大統領任期を1年延長した上で1990年に大統領を辞任した。それでもピノチェトは陸軍退役の1998年まで陸軍最高司令官の地位を保持し続け、陸軍司令官退任後も終身上院議員の地位に就いた。

ピノチェト逮捕とその後

 その後、ピノチェトは1998年に病気療養のために渡英した際、スペイン判事バルサタル・ガルソンの国際逮捕状が発行されたことを受け、ジェノサイドと人道に対する罪で逮捕・拘束された。(※6)しかし、健康上の問題があるとして2000年3月に当時の英国内相ジャック・ストローによりピノチェトのチリ帰国が認められることを受け、拘束が解かれた。(※7)

 その後もチリ国内でもピノチェトを裁判にかける動きはあったものの、健康上の問題や認知症を理由に有罪となることはなく、2006年に91歳の長命でこの世を去った。ピノチェトの葬儀の際にはピノチェトによって暗殺されたカルロス・プラッツ陸軍司令官の孫が遺骸につばをかけようとして拘束される事件が起きている。ピノチェト自身は逮捕自体を不当なものと思っていたようで、生前自分は謝罪するべきことは何もしていないとマイアミのスペイン語テレビ局のインタビューに答えていたという。(※8)ピノチェト軍政における秘密警察DINAのトップであるマヌエル・コントレラスは、コンドル作戦(※9)に関わっていたとして2005年に訴追され、懲役12年の刑に処せられた。ピノチェト軍政について司法の場で間接的に裁かれた形となった。

私たちはここから何を学ぶか

 先日衆議院総選挙が行われた。私たちは民意が反映される選挙が行われること、そのことをいろいろと議論をすることを当たり前のように享受している。こうした政治に対する議論が自由に行われるためには、常に不断の努力をもって政治について主体的に参加し、行動することで成り立つものである。今回の衆議院総選挙の投票率が低いことは、政治に対する不満がないことの表れでもあるが、政治に対して主体的に参加することを意識しないで済むことは当時のチリ民衆からすれば理解に苦しむことであろうとも感じた次第だ。

皆が集まっているイラスト1

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

(※1) 安藤慶一「アメリカのチリ・クーデター」軍事政権による弾圧と秘密警察DINA

(※2) 安藤「前掲」軍事政権による弾圧と秘密警察DINA

(※3) 安藤「前掲」拷問犠牲者

(※4) 安藤「前掲」米国からピノチェトへの経済・軍事的支援

(※5) 安藤「前掲」ピノチェトの経済政策:シカゴ・ボーイズの暗躍と失墜

(※6) アリエル・ドルフマン著 宮下嶺夫訳「ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判」P33

(※7) アリエル・ドルフマン著 宮下嶺夫訳「ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判」P131

(※8) アリエル・ドルフマン著 宮下嶺夫訳「ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判」P235

(※9) コンドル作戦


サポートいただいたお金については、noteの記事の質を高めるための文献費などに使わせていただきたくよろしくお願い申し上げます。