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日本社会党とは何だったのか -党員・組織・体質について-

 (敬称略)

 NHKのニュースサイトに社会民主党の党員3割にあたる約4000人が離党をし、47都道府県中17の組織で解散がなされたとのニュースがあった。(※1)立憲民主党への合流を希望する党員や自治労13県本部などが去った後(※2)も、新たな入党者を獲得することができなかったことの表れと言えよう。

 しかし、これは今に始まったことではない。日本社会党時代も党員が少ないことの問題、党組織のあり方、日常活動がきちんとできていないなど何度となく繰り返し言われ続けてきたことである。しかし、それ以上に社会党の関係者は世間常識に外れたところがあるという指摘がある。岡田一郎は「日本社会党-その組織と衰亡の歴史-」の中で石橋政嗣の言葉を引用する形で、社会党が推薦をしていた東京都知事美濃部亮吉の演説会場で社会党の党員が演説に人を集めるための努力をせず、しないどころか会場にもいなかったというエピソードを紹介している。(※3)

 ただ、これは党員だけが問題というのではない。社会党自身が党員、活動家、候補者の面倒をきちんと見ることができなかったことも一因である。1968年の参議院選挙に惨敗した社会党は社会党再建の一環として、全党員を対象としたアンケートを行ったが、そこでは議員ばかりが特権を持ち、活動家、党員に対する負担ばかりが大きいという不満の声が寄せられた。具体的には、日常の党活動を手弁当で行わざるを得ない状況にあること、選挙違反の責任を負わされること、また、秘書給与をピンハネする国会議員がいること等が挙げられている。(※4)

 そして何よりも一番の問題は候補者の面倒を見るだけの資金がないために候補者が資金力のある労組関係者にばかり集中していたということだろう。岡田一郎は前著「日本社会党」次のように指摘する。

「社会党が候補者の選挙資金の面倒をみられないというのは重要な問題であった。文化人が社会党から立候補しようとせず、労組幹部ばかりが選挙に出るのは選挙資金を自前で用意しなければならないからだと言われていた。その選挙資金を党が用意する気がないのならば、どんな改革案を作成したとしても、国会議員の出身母体の偏りを変えることは不可能であろう。」(※5)

同様のことは左右に日本社会党が分裂していた時代にもあり、左派社会党が総評系労組に依存する体質であったことは、原彬久「戦後史のなかの日本社会党」の以下の引用からもわかる。

「鈴木(筆者注:鈴木茂三郎)の側近広沢賢一は当時を回想してこうのべる。『総評の高野実(事務局長)あたりから、社会党を支持するのでカネも出す、だから頑張れ、といわれた』(広沢インタビュー)。
 社会党の政治資金の調達つまりカネ集めは、結党以来とくに指導者たちにとっては最大の苦労であった。『鈴木茂三郎はいちいち知り合いの実業家から集金していたし、右派の河上丈太郎は弁護士だったので顧問先からカネを集めていた』(広沢インタビュー)とは、広沢の述懐である。広沢自身も、大柴滋夫(当時、中央執行委員)に同行して、たとえば旺文社社長赤尾好夫を訪ねている。『赤尾さんから社会党はもっと物分かりがよくならなきゃいかんよ、などといわれた。そんなことを聞かされてカネをもらって歩くというのはつらいものだ。』つまり講和以前は、組織的にではなく、あくまで個人的に資金集めをしていたのであり、『選挙の度ごとに親や親戚からもカネを集めたので、まわりのものはみんな嫌がっていた』(広沢インタビュー)」。(※6)

 つまり、社会党自体にはそもそも政党を拡大するのに必要な資金力がないため、資金面、人材、組織について総評系労組に依存をせざるを得ない状況にあったと言える。それは、日本共産党が、社会党以上にイデオロギー上の理由で社会からの反発やハンディキャップがあるにもかかわらず、自前の組織を作り、人材を集めるために活動をすることで資金力を確保してきたこととは対照的である。社会党に日常活動を行うための努力を欠いていたことは、① 戦前に小作争議の支援を通じて得た一定の支持が、農地改革で農地を得たことにより保守化した農家の要望に応える政策や農家への働きかけを怠り(※7)、支持基盤を失ったこと、② 江田三郎が試みた二重党員制度の導入が社会主義協会の向坂逸郎や執行部メンバーの浅沼稲次郎の反対に会い実現しなかったこと(※8)などからもわかる。それは、選挙の際にいろいろと動く、総評系労組や社会主義協会関係者に依存していたこととも関係する。

 しかし、そうした内向きな体質は、総評系労組が同盟系労組との再編により保守化したこと、社会主義協会が世間の批判を生み活動を制限されて衰退したことなどにより、社会党を衰退させていった。そして1996年の民主党結党に伴う党分裂、2002年の北朝鮮の拉致発覚をきっかけとしたことによる社会党・社民党へのマイナスイメージによる2003年総選挙での惨敗、そして昨年の自治労系議員・党員を中心とした立憲民主党への合流で社民党は風前の灯となった。党首の福島瑞穂はサポーター制度の導入で党の再生を狙うとあるが、見通しははっきりしていない。厳しいものがあると考える。

皆が集まっているイラスト2

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくして日本社会党の勉強はない、と考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

(※1)

(※2)

(※3) 岡田一郎「日本社会党-その組織と衰亡の歴史-」P150~P151

以下、岡田前掲と略

(※4) 岡田「前掲」P130 このほか、同著でのP110には党組織の活動家の給与が中卒、4年勤続、19歳の当時の平均給与よりも少ないことに対する不満の声が引用されている。

(※5) 岡田「前掲」P131~P132

(※6) 原彬久「戦後史の中の日本社会党」P93~P94

(※7) 岡田「前掲」P41~P43

(※7) 岡田「前掲」P57

なお、二重党員制度は、党費の納入、党機関紙購入、党候補の支援といった最低限の義務だけを負う一般党員と、党の日常活動に携わる活動家党員の2つから成り立っている制度である。一般党員制度は現在主要政党で行われているサポーター制度に近いと言っていいだろう。

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