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日本社会党とは何だったのか 序(前編)

(注:敬称略)

はじめに

(これは日本社会党時代から続いた社民党の終わりへの序曲だ。)
そう感じたのは2020年11月14日の社民党の臨時党大会で、立憲民主党への合流を希望する地方組織、国会議員を容認する議案が可決されたときだった。

参考記事:「社民党は消えてしまうのか」NHKニュース

日本社会党の低迷、衰退の原因としては、イデオロギー闘争に明け暮れたこと、組織力および日常活動の欠如、労組依存体質など、様々な角度から指摘がなされている。これらに共通することは有権者が何を求めているかに耳を傾けず、また自分たちの理念、政策をいかにして有権者に理解を求めるかという努力を怠ってきたことを意味する。それは、社会党が極めて内向きな態度で政治に接してきたことの表れでもある。

1989年参議院選挙での自民党惨敗のニュース
参議院選挙で社会党は女性候補を中心に擁立し圧勝した
(中日ニュース1989年8月No.1604_2)

1970年代の革新自治体の隆盛、1989年参議院選挙の社会党大勝と、有権者が自民党政治に反発し、社会党に期待をしたシグナルはあった。しかし、1947年の片山内閣、1948年の芦田内閣を除き、1993年の非自民政権による社会党の連立参加まで社会党は政権党になれないままで終わった。そして自民、社会、さきがけの連立政権である村山内閣、橋本内閣を経て、1996年の民主党結党に伴う分裂の後も党勢は基本的には低落傾向で進んだ。1996年の総選挙で社民党党首の土井たか子が声をかけた市民運動出身の社民党議員も、民主党系政党に行くか、自治体の長に鞍替えするなどし、市民政党としての再生も失敗に終わったのである。

日本社会党の体質への批判

新進党、民主党と55年体制後の野党第1党の結党に関わった伊藤惇夫は「政党崩壊」で、野党第1党が自民党に対抗できない体質について新進党、民主党の体質を批判するとともに日本社会党の体質がその遠因になっているとして次のように述べている。(※1)

「この十年(注;2002年当時)を検証するためには、やはり、その前段にも目を向ける必要がある。そこに浮かび上がってくるのは、五五年体制の一方の主役でもあった社会党という政党の存在、責任である。はっきりいうと、この政党がもう少しまともであったら、日本の政治はより健全な方向に向かっていたはずだ。戦後の占領政策の中で、かなり「人工的」に育成された社会党は一九四七年の総選挙で第一党となり、片山内閣を誕生させた。混乱期という前提があったにしろ、国民はそれなりに社会党への期待を抱いていたのである。こうした状況を生かし、社会、国民意識の変化を柔軟に受け止め、国民政党への脱皮に向けて真剣な自己改革を進めていれば、その後の政治が大きく変わっていた可能性は少なくない。
だが、社会党は階級政党の殻に閉じこもり、五五年体制がスタートしてほんの五~六年しかたっていない時点で政権獲得への意欲を放棄してしまう。六〇年代以降の総選挙で常に過半数以下の候補者しか立てなかったことが、それを明確に物語っている。以後は労働組合に全面依存しつつ、党内のイデオロギー闘争に明け暮れる。政権獲得の意思を持たないから、非現実的な政策を掲げ、与党に対しては「反対のための反対」を繰り返す。その裏では、自民党との「住み分け」を固定化し、野党第一党の座に安住しつつ、国対政治に象徴される自民党との「裏談合」によって政治の空洞化を定着させていく。政権獲得意欲を持たないくせに、野党第一党の地位だけは確保し続けた社会党の存在が、結果的に自民党の三十八年にわたる長期一党支配を生み出し、戦後の日本人から政権選択のチャンスを奪い取ったのである。」

伊藤の見解は保守政党を歩み続けた人物からのものであるから、社会党支持者などからは違和感もあるだろう。

社会主義理念に基づく社会党政権こそが肝要と考える立場からは、社会主義革命は恐慌による混乱から保守政権に混乱が起こり、その後世論を興し、運動を展開することにより「平和」的(議会主義に基づくとは限らない)手段により社会党政権を経て社会主義政権を成立させることで起こすものであるということを伊藤は分かっていないという反論があるだろう。

ただ、1929年の世界大恐慌でも恐慌を引き金とする社会主義革命が起こらなかった。資本主義の象徴であるアメリカはニューディール政策などで恐慌による混乱を回避した。以上を考えると、高度に発展した資本主義社会で社会主義革命は必然という理論が現実と乖離していることは明らかだ。また、世界を混乱に陥れた恐慌自体が第2次世界大戦後起きていないことからしても、理論が現実に合っていないということがわかる。しかし、そもそもそれ以前の問題として、この立場は「平和」革命の後、社会主義政権に適合させるために、革命に異を唱える意見を排除することを含みとしているものである以上、議会制民主主義と真っ向から対立するものであり、受け入れられるべきではない。

「江田ビジョン」否定による「江田非難決議」を受け書記長を辞任する江田
(中日ニュース1962年11月No.463_3)

また、社会党内にも現実的な判断に基づく政権獲得を考えていたという立場からは、伊藤の言う「人工的」に育成された、の定義がどこにあるかが引用元の文章からはわかりにくいことや、江田三郎の構造改革論、江田ビジョン、社公民路線に言及がないことへの違和感があるだろう。また、革新自治体への言及がないことにも違和感があるかもしれない。

ただ、江田などの例外があるとしても、党の主流派が江田の政治的スタンスを否定し続け、江田を最終的に社会党離党に追い込んだこと、1958年の衆議院選挙を除き単独で政権を獲得できる候補者を擁立していないことを考えると政権獲得の目標を放棄しているとみなされてもやむを得ない。

1967年の東京都知事選で社会党、共産党の推薦で当選した美濃部亮吉

革新自治体についても、たしかに地方から中央を変えるという意味で社会党を中心とした革新勢力にとっては意義のあるものだし、その重要性は決して軽んじられるべきものではない。ただ、同時に直接選挙により当選する首長と議会で多数を占めることで政権党を目指す議会制民主主義とは制度が異なることに留意しなければならない。都道府県議会、政令指定都市における議員数の推移を見ると、1965年の東京都議会選挙において社会党が自民党を上回るといった事例はあるが、基本的には自民党優位で動いており社会党は国政レベル以上に議員数で差をつけられている。

革新自治体の首長で社会党が単独で当選したケースとしては、1983年の北海道知事選挙で社会党とミニ政党である革新自由連合の推薦で当選した事実上の社会党候補である横路孝弘が挙げられる。しかし、基本的には他の当時の主要野党である共産党、場合によっては公明党、民社党などとの選挙協力で当選しているケースが多い。社会党単独で革新自治体の首長を誕生させる力はなかったと考えたほうがいいだろう。それ以外にも、東京、大阪などの都市部においては革新自治体の誕生に成功したものの、地方においては1970年代においても香川県知事の前川忠夫などの例外はあるものの、基本的には自民党ないし保守系の首長が主流であったことも忘れてはならないだろう。社会党が地方での革新自治体に成功しなかったことは、社会党の支持が地方では得られなかったことを意味している。中央レベルでの社会党単独政権はもちろん、社会党を中心とした他の野党との連立政権も実現できなかったことの遠因になっていると言えよう。

なお、成田3原則にも言及されている日常活動の不足による労組依存体質、佐々木派と江田派によるイデオロギーを名目にした激しい派閥闘争、現実的な対案を提示することが、現状を肯定することであり現体制の打破を目指す党の理念に反するとして協議にも応じられないとする姿勢などは伊藤のみが言及をしていることではない。政治学者の岡田一郎は「日本社会党ーその組織と衰亡の歴史ー」の中で、佐々木派の派閥抗争の責任を指摘しているほか(※2)、軍事評論家の前田哲男は「私が見てきた社会党の防衛政策」において、社会党は自身が主張をする非武装が具体的に何を意味するのかを提示せず、現状を認めた上でそこからどのように具体的な軍縮を展開するかという主張をしてこなかったと述べている。(※3)

以上を考慮すると、大筋においては伊藤の社会党に対する見解は妥当であると言える。

(※1) 伊藤惇夫「政権崩壊」(新潮社)P186-P187

(※2) 岡田一郎「日本社会党-その組織と衰亡の歴史-」P208

(※3) 前田哲男「私が見てきた社会党の防衛政策(下)」大原社会問題研究所雑誌 №677/2015.3

(「序・後編」に続く)

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