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日本社会党とは何だったのか-土井ブーム-

土井たか子選挙区落選と社民党没落への序曲

 (土井の威光が終わったということか。)2003年総選挙で土井たか子が地元選挙区兵庫7区で対立候補に敗北を知った際に率直に感じた。2003年総選挙は自民党と当時の民主党との間での熾烈な選挙戦があり、共産党、社民党がその間に埋没したという感はある。しかし、社民党自身が党の独自性を踏まえつつ有権者からの理解をいかにして得るかという努力を怠ってきたこともまた事実である。

 1996年に鳩山由紀夫、菅直人による新党民主党の結党によって社民党が分裂した際、社民党は1989年参議院選挙、1990年総選挙で社会党の党勢を回復させた当時の日本社会党委員長である土井を党首に据え、党勢回復を試みた。しかし、最後の切り札とも言える土井でも党勢回復に失敗した。

 土井は2003年総選挙での自身の選挙区での敗北、社民党惨敗の責任を取って党首を辞任したが、それ以降社民党は党勢を回復するに至っていない。2022年現在、政党助成法上における政党交付金の交付対象となる国政選挙での得票率2%要件を維持できるかどうかという危機的状況にまで陥っている。

社会党委員長時代の土井の政治スタンス

 土井の社会党委員長就任の背景はどういったものであったのか。石川真澄によると、土井の前任の委員長石橋政嗣は社会党の党務、閥務、政務にも通じかつ労組の組織活動すべてに通じた人材であったが、反面強烈な自信家でその過剰な自信によって党を運営した結果、党内の意見を無視しているとして党内の反発を招いていたという。そのため、1986年の衆参同日選挙で社会党惨敗の責任を取る形で石橋が委員長辞任をした際、後任について党幹部の役職と無縁であった土井が選ばれたということであった。(※1)

 土井は従来の国対政治で行われていた反対して通すという駆け引きに対して否定的な見解を持っていたほか、党内基盤がなかったために党外の学者やジャーナリストをブレーンとして頼っていた。また、社会党の平和主義的理念を踏まえつつ、日米安保、防衛などの問題においては与党案に対して反対して通すという社会党支持者や支持基盤へのパフォーマンスではなく、ある種の妥協、修正を模索していくことで、防衛の名の下に人権が制限される方向をできるだけ弱めようと試みたとされる。(※2)

 この土井のスタンスは私たちが土井にイメージする護憲を繰り返し主張するというものとは違い、どちらかと言うとオルタナティブを提示することを通じて有権者にどちらの路線を選択させるかという提案型、建設型の政党への方向の可能性を示唆したものであった。さらに驚くべきは、石川が言及したこれらの部分はいわゆる土井の「ダメなものはダメ」と主張したとされた1988年の北海道知床での記者会見に基づくものであるということである。だとすると、土井は原理原則のみを主張するイメージとは異なる政治家であったということになる。知床での記者会見の内容がメディアに誤解されたことが致命傷になっていた可能性は否めない。誤解された理由として石川は、土井自身が真意を正確に伝えることができなかったことにあったとしている。(※3)

1989年参議院選挙の社会党大勝への期待と挫折

 社会党は1989年参議院選挙で、政権党たる自民党のリクルート疑獄による金権体質、消費税導入、コメ、牛肉、オレンジなどの農産物の輸入自由化といった生活に密着した自民党政治への批判票の受け皿となる形で大勝をした。参院選大勝の影響力は大きく、社会党に近い文化人、知識人は社会党に自民党に代わる政党になることを希望した。1989年11月に岩波書店から出版された高畠通敏編「社会党 万年野党から抜け出せるか」はそうした知識人の想いの表れとして出版された本の一つである。その著書において高畠は参院選の争点となった生活中心主義において社会党が果たすべき役割として、次のように述べた。

 社会党に必要なのは、(略)庶民の生活尊重、生活中心主義という政治姿勢の中から、新しい時代に即した「生活の革新」の訴えをまきおこし、それに基づいた一貫した政策の体系を、国民に明快な形で訴えることだ。それなくして、単に、政権を前にして、保守党のつくりあげた既成事実に無原則的に妥協してゆく種類の現実主義では、大衆の支持を積極的につなぎ止めることは難しい。シンプルだが生き甲斐のある生活、「友愛」と「連帯」の精神に満ちた社会参加の中での充実した生活をすべての人が営める「平等社会」のビジョンを、社会党が強力に呼び掛けることができたときにはじめて、自民党不信から社会党へと顔を向け始めた若者や主婦、お年寄りたちを、与野党の逆転を熱望する社会党の積極的な支持層へと転化させることができるだろう。(※4)

 高畠によると、戦後民主主義の高揚期の社会党は若年層、女性から当時の保守政党に象徴される「封建的」(注.高畠はカギ括弧をつけて「封建的」と表現をしている)な社会慣習と闘う生活の合理化を進める生活革新の政党であったとある。その上で、土井ブームの時点においては、より広範な社会参加の中で充実した生活を希求する生活革新の政党として若年層、女性から社会党は期待されているとしている。そうした彼らの支持を社会党につなぎ止めるためには、社会の範囲を家族や職場の同僚集団に限定することで起きる同質的な集団の中に安住するために起きる、集団エゴイズムと単一民族社会イデオロギーの温床となる構造を打破し、開かれた社会の概念を対峙し推し進めることが社会党に必要であると結論付けている。(※5)

 その上で高畠は、自身が定義する開かれた社会を推し進めるために必要なこととして、① 働きがいのある職場にするべく、職場社会における男女平等を前提とした雇用の機会均等、労働関係における人権の保障を行うこと、② 高齢者の社会福祉の一環として高齢者が働ける職場環境の整備、社会参加の機会の確保を行うこと、③ 社会活動促進のための補助金等の助成、年金問題、老後の生活、病人への看護に対する社会党独自のプランの作成、④ 住宅、居住に対する地価抑制および資金の低利融資といった住宅に関する社会政策など、自民党とは異なる真の意味で豊かな社会実現のために必要な政策を社会党が提示することが必要であると述べている。(※6)

 高畠の提言のうち、社会活動が促進されるための施策は自社さ政権時において特定非営利活動促進法の形で成立した。だが、税制上の扱いなどをはじめ自民党主導の形で成立した感は否めず、社会党が提示する政策を自民党が都合のいい形で採り入れるという構図を打破することはできなかった。(※7)社会党が、自民党に代わる提言をしても、それを実現させるための実行力、政策立案能力を欠いていることがわかる。

 また、若年層、女性の支持を獲得するべきであるとの高畠の主張は、社会党が総評系労働組合に依存をしている体質を改め、広範な支持を獲得することを通じて幅広い人材が集まる政党になることが必要であることを意味している。では、社会党は総評系労働組合に留まらない広範な人びとによって構成される政党に変わることができたのであろうか。参院選の翌1990年衆議院総選挙ではある程度土井ブームが残っていたこともあり、旧来の総評系議員に加えて弁護士や市民運動家など多くの新人議員が当選した。当選した新人議員の中には後に政界再編のキーパーソンとなる議員も少なくなかったのだが、彼らは社会党を見限る形で党から離れた。政策立案能力だけでなく、人材を使いこなすという点でも社会党は劣っていたことがわかる。

土井ブームのチャンスを台無しにした意味

 私は、日本社会党時代の土井たか子の委員長就任を機に、従来の党の問題点を改めていたら、ここまで社会党、社民党が凋落することはなかったのではないかと考えている。党の労組依存体質からの脱却、イデオロギー闘争に名を借りた派閥争い中心の内向き体質から脱却し、生活者が日々の生活において何を求めているのかという外に向けた視点から自民党とは異なる政策の代案を作成し広く有権者に提示し理解を得ること、政策立案に必要な人材を発掘し使いこなすこと、社会党としてどのような政治姿勢で臨んでいるのかを、広報や日頃の政治活動を通じて有権者から理解を得ることが社会党、社民党の生き残りには必須であった。にもかかわらず、これらを行うだけの能力、手腕が社会党、社民党にはなかったことが今日の状況を招いている。

 55年体制が崩壊し、社会党が衰退した後、野党第1党は新進党、民主党・民進党、立憲民主党と党が次々と変わり、政界の再編と称して野党は統合と分裂を繰り返している。そこには有権者に顔を向けず、内向きで狭い視野の政治家の姿しかない。野党が自民党に代わる政党足り得たいのであれば、土井ブームのチャンスを逃した社会党の姿勢から学ぶべきであろう。 

皆が集まっているイラスト1

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(※1) 山口二郎・石川真澄編「日本社会党」(日本経済評論社)
第8章「日本社会党」P205~P206
 なお、石川は土井を委員長にするよう働きかけた勢力は明らかではないとしつつ、当時の社会党代議士岩垂寿喜男、社会民主連合結党に関わった安東仁兵衛らが関係していたのではないかとしている。
 また、安東が主催する勉強会に参加していた朝日新聞記者の筑紫哲也、石川自身、毎日新聞記者の岩見隆夫が、安東を通じてNTT労組である当時の全電通委員長山岸章と会見した際に、当初委員長に推薦する予定だった書記長で全電通出身の田辺誠よりも新鮮味の点で土井がいいと話したことも影響した可能性があるのではないかともしている。

(※2) 山口・石川編「前掲」第8章「日本社会党」(日本経済評論社)
第8章「日本社会党」P209~P216

(※3) 山口・石川編「前掲」第8章「日本社会党」(日本経済評論社)
第8章「日本社会党」P216

(※4) 高畠通敏編「社会党」(岩波書店)
「社会党は今、何をすべきか」 P132~P133

(※5) 高畠通敏編「社会党」(岩波書店)
「社会党は今、何をすべきか」 P127

(※6) 高畠通敏編「社会党」(岩波書店)
「社会党は今、何をすべきか」 P128~P130

(※7) 菅孝行・高野孟共著「日本の権力」(第三書館)に、野党の政策が自民党に都合のいい形で採り込まれた事例およびその結果について以下のような記述がある。

「社共は年来、沖縄返還と日中国交回復をかかげてきたのであったが、この時期にこれらの要求は、それまで沖縄の米軍支配を認め、台湾=中華民国正統論をとなえてきた自民党政府の手によって実現されてしまうことになった。もちろん、そのやり方は自民党流であり、沖縄返還も沖縄民衆の軍政からの解放という意味ではなく、日米両国の新たな国益のあり方に見合った協定による日本への返還であったし、日中国交回復も、戦争責任の明確化や日中の民衆の国際連帯を目的とするものであるよりは、中ソ対立を睨んだアメリカのアジア戦略に相乗りして、中国への経済進出を図ろうとするものであった。
(略)
社会政策とか福祉のレベルでは、高度成長によるパイの増大にともなって、ちょうど外交上の野党の要求を自民党政府がとり込んだのと対応して、かなりの拡充に政府は応じた。ここでも、野党の主張は、政府の手で、換骨奪胎されながらも実現されたのである。
(略)
具体的にそれは日本資本主義の復興・発展がもたらした余裕の、「弱者」に対する再配分であり、革新野党の主張や要求のストレートな実現というよりは、自民党政治のウィングを左に伸ばす政策が可能となった結果にほかならない。
(略)
だが、革新野党は、沖縄返還を勝利と呼び、日中国交回復を「我々の従来からの要求」と評価し、自画自賛した。74年をピークとする賃上げの実現も、福祉行政の推進も、所得格差の是正も、革新野党は「勝利」と呼んだ。だがそれは、革新野党の主張や要求の換骨奪胎であるという以上に、革新野党の存在そのものを無用であるかのように人々に信じ込ませる基盤づくりにほからならなかったのだ。(菅孝行・高野孟共著「日本の権力」P17・P20)

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