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FIELDS#02に向けて、尖石縄文遺跡へ行ってきました

 第一回に又吉直樹さんを招き行ったFIELDSですが、第二回目に映画監督の堤幸彦さんが決まりました。先日行った事前トークにて今回は縄文をテーマに作曲することとなり、縄文に触れるべく長野県茅野市にある尖石縄文遺跡へ行ってきました。(事前トークは下のリンクより)

このイベントFIELDSは、音楽にまつわる異分野との交流によって生まれる作品を発表する場です。それ以外にもじっくりとライブパフォーマンスやトークを行う盛りだくさんの内容となります。

縄文に慰められる

 まず、15000年も前に10000年以上かけてゆっくりと変化していった人々の痕跡とその暮らしに思いを馳せていると、現代の生活の変化がいかに驚異的なスピードであるかを考えさせられました。

 縄文以降の文明が進化する速度を考えても、この数十年はとんでもない速さで人を取り巻く環境は変化しました。僕が生まれて40年余り、習慣や社会規範も、挙げればきりが無いくらいです。そんな世の中のスピードに並走してはいますが、「疲れていない」と言えば嘘になるでしょうし、並走することも困難になりつつある、もしくはすでに時代の背中が遠ざかっていく感覚さえあります。

 しかし、10000年もの長い時間をかけて少しずつ変わっていった縄文時代の想像も及ばないほど長く、じっくりとした歩みに、なんだか慰められている気分になりました。

 ここ数年は縄文ブームだそうですが、何が人々を魅了するのでしょうか?

 僕が感じた慰めの要素はその一つかもしれませんが、それは逃避とは似て非なる、人とは何か?に立ち返る「再生への誘い」みたな響きを纏っている気がしないでもありません。

 以下、僕なりに縄文に触れた感想ですのでご興味があれば最後までお付き合いください。あと、僕はそこからどんな音楽が作れるのだろうか?

前提がもたらす幸福感

 一つ目に、縄文と現代で決定的に違うと言えるのは「生」についての前提です。おそらく縄文時代は生きることが最優先でした。発掘データからわかっていることは、生まれてきても無事に成長できる確率が低かったこと。怪我や病気に見舞われることはそのまま死を意味したでしょう。つまり人類の課題はとにかく生き延びること。それが人々の共通の前提だったはずです。
 それに引き替え、現代は生きること自体は多くの人が達成し、どう生きるかという課題に直面しています。そこそこ長い一生にどんな生きがいを見つけることができるか?それは人の数だけ存在し、全てを総括する前提の意識体を感じることは難しそうです。

 縄文時代というのは人類の課題が統一して「生きる、生を繋いでいく」、そのことに尽きると仮定すると、 現代を生きる僕の中にも思い当たる出来事が想起されました。

 それはコロナ禍です。実のところ、僕はコロナ禍に「生きる」という前提が共有された社会の中にいる幸福感みたいなものを感じていました。災いとして訪れた悲劇にもかかわらず、誰と話をしても、どんな情報を見ても、コロナという前提が人々の心のなかにある状態が僕は好きでした。

 また、それとなく似ているのは、お正月やクリスマスシーズンに感じている共同体としての幸福感です。みんなが或る前提の中で生活している状態にとても安らぎを感じます。

 争いが無くならない理由にも、人々の前提を結びつける作用を感じますが、だとしたら近代はその種の安らぎが負の側面に傾いています。しかし生と死を分ける状況以外に、大きな意味で前提が整うことがあるでしょうか?想像ができません。

 縄文時代はそれが自然な状態で発生していた最初で最後の時代だったのかもしれません。生命を維持するという最重要課題を人々は1万年以上もかけて克服し、縄文から次の時代へとステップアップしていきました。

 その後、統治という構造が生まれ、文明を育み、人々の生活そのものが細分化されていくことで、それぞれの「生きる」という意識が持つ前提条件も枝分かれしていきました。

 そして現代、一生かけても使いこなせそうにない道具や情報、選びきれない多くの選択肢によって人々の前提がこれまでとは比較にならないほど枝分かれしてしまったように思えます。

 家庭の中でさえ、それぞれの得る情報によって分断されたこの状態を僕はそんなに好きではありませんが、それによって受ける恩恵があるのも事実です。捉えようでは、かつてこれほど豊かで自由な時代は無かったと思います。
 ただ、日々の生活においての幸福感は便利になるほど薄れていく気がしているのも事実です。

 日常から離れた高原の遺跡を歩きながら、もしかしたら縄文の人々が持っていたかもしれない共同体としての幸福感に思いを馳せていました。

 また、振り返るほどに、僕はコロナ禍での「前提の共有」に幸福感を得ていた様に思います。災いとは別のところで。

人そのものが重要な記憶装置だった

 遺跡に併設されている縄文考古館では、発掘された土器や土偶などの展示もあり、縄文の人々の中にあった美意識に惚れ惚れしました。中でもこの土器には特に心を惹かれいつまでも見ていたい気持ちでした。

深鉢土器

 また、今のような言葉は無いにせよ、何かしらの呼び名はあったのでしょうか?伝える術は?とても気になりました。遺跡からは言葉の痕跡は発掘されていませんが、文字にする文化が無かっただけなのかもしれませんし、1万年前のことです。想像するしかありません。考古学者も痕跡を頼りに想像を膨らませるそうです。

 最近の研究では、縄文時代は寿命が少しずつ長くなっていたと記されていましたが、人そのものが重要な記憶装置だったことは想像できます。寿命が長くなることは、そのまま次の世代へ多くを引き継ぐ情報量を意味していたのでしょう。

 その後、記す術を手にした人類は、さらに多くの知識、情報を次の世代に引き継ぐことが可能になったのでしょうけれど、1万年以上続いた縄文時代のゆっくりとした変化のスピードは、まだそれを後世に伝えきる手段が人以外に無かったことを示しているようにも思えます。

 記し伝える手段は石から紙へと姿を変え、コンピューターが登場してからのここ数十年、蓄積可能な情報量は桁違いに加速しました。おかげでこんな風に自分の得た情報を記録し、見ず知らずの誰かと共有することが可能になっています。

縄文のアンビエントと信仰/縄文ブームの正体

 土器にも様々な形がありますが、気になるのはそれらに名前はあったのか?ということです。当然記録がないので、世界中の誰に問いかけても知る人はいません。どう転んでも知ることができない、そんな状態にロマンを感じたりもしました。僕はきっとあったと思います。「ねえ、そこの土器取ってくれる?」みたいな意思の疎通はあったんじゃないかな。笑
 
 さて、そんな縄文時代から1万5千年後の今、名前の付いていないものを探すのは至難の技です。人類はいよいよ、あらゆるものに名前をつけ果たしたんじゃないだろうか?

 今と比べてしまえば、きっと縄文時代は名前の無いものばかりであり「環境(アンビエント)」だけが概念として存在し、それと共にいきていた時代とも言えそうです。ここからはそれについて触れたいと思います。

 名前をつけること、命名は環境(アンビエント)にある概念化可能な対象一般に対して、それを他から区別し、指示できるようにする為に、一意的な記号(一般に言葉、文字)を与える行為です。

 例えば「森」ですが、その意味の中に人は沢山の中身を想像します。植物や動物、昆虫といった様々が含まれるかもしれません。植物にも種類があり、さらには構造、成分、といったように次々と名前が細分化さて、森のなかに抱く多くの未知は失われていくでしょう。暗闇に抱く畏怖がライトに照らされた途端消えてしまうように。しかし照らされた暗闇が明らかになったとしても、目に見えるものだけが全てではなく、そこにはチリやホコリ、水蒸気が潜んでいたりします。「見える」とは、あるかも知れないものを見落とす危惧を同時に孕んでいます。

 名前を与えることは、環境そのものを意識させ、見えやすくする行為ですが、その領域が増えるほどに、認識として固定化されていなかったときの畏怖を消失させていく効果があると思います。

 余談ですが、作詞の過程で、気持ちを固定化していくほどに失われていく表現しきれない感情もそれと似ています。作詞はできるだけそれを回避し、包括する表現を探す作業でもありますが、僕はよく当てずっぽうで言葉を無理やり自分の中からおびき出し、それを救って作詞をしたりします。無意識のつぶやきに驚かされることが好きなのです。

 まだ多くのものに名前の無い時代に、アニミズムや八百万という概念が育まれたのかもしれませんが、今、神や精霊の存在をどのくらいの人が全身全霊で信じているでしょうか?それらは名前や言葉が生まれ、概念が固定化していく過程において、徐々に疑われはじめた存在だと思うのですが、立ち返りたいのは「居ないってことを、本当に知っているのか?」ということで、実は「知った気になっている」状態が正しい理解なのかも知れません。

 ほぼほぼ最小単位の世界まで認識している科学が、それでも知ることのできない領域に突入している今、そこにはまた神の様な存在が見え隠れし始めている気もします。神様というものではないにせよ、この世の奥にある何かの存在を。
 
 もしかしたら、縄文の「純粋な盲目さ」と、現代の「認識しつくしてから知る盲目さ」が、今再び合間見えているのかもしれず、それが昨今の縄文ブームの正体なのかもしれません。

 結局、見えない何かを信じてみたくなるって、、物理法則が、仮説から導き出されることと似ている気がしませんか?
 例えば、縄文時代は「インスピレーションの時代」で、1万五千年をかけて人類が再び信じたくなるものが、そんな目に見えない世界だったりするという(笑

 また、縄文時代は人々にとって厳しい環境だったとも言われていますので、もしかしたら始めに想像した幸福感などとは無縁の可能性もあります。

 ただただ生き抜くために奮闘する人々、、その心を支えていたのは、あらゆる環境を敬う信仰だったのかもしれません。

生と死、縄文とアンビエント

 さて、作曲にあたり、縄文そして日本の五十音を使ったものというテーマが生まれていますが、もちろん縄文時代に今のような言葉はありません。堤監督も事前トークで仰っていましたが、今の音(オン)で意味を成さないものが縄文というテーマに添うと思いました。その並びについては、「生と死」を為す「あ、うん」の、「あ」を冒頭、「うん」を最後に、それ以外については竪穴式住居の中でのファーストインプレッションを採用することにしました。

遺跡跡地に再現された竪穴式住居にて、何度かチャレンジしましたが、一度目の神聖さを超えることはできませんでした。(レコーディングのファーストテイクのようなものです)日々の積み重ねはファーストテイクの神聖さを捕まえる為だと最近はそう思っています。レコーディングではありませんが、遺跡を歩き回り実際の現場で感じたままのフレッシュな50音の並びを記録しました。

 縄文時代、そこには名も無き沢山の環境(アンビエント)があったのでしょうが、今、環境に名前をつけ尽くした結果、人々が求めているのは、名前ではなく、環境そのもののような気がします。そこにある知ることの出来ない多くに思いを巡らし、人とは何か?といった、自分たちのルーツを考える壮大な娯楽的要素が充満しているとも考えられます。
 さらに、縄文という時代に心を惹きつけられる理由の一つは「知れないことを知った」心の揺り戻しなのかもしれず、情報に溢れた世界で失った畏怖を取り戻したいという、新しい欲望の現れとも感じ始めました。
 知れないことは悲観的ではなく、むしろ神聖な気持ちだと思います。僕が歌から離れられない理由も、そこにだけは神聖な時間が存在するからだと、縄文を通じて思い出しました。

 友人が何気無く発した「フォークアンビエント」という言葉にピンと来たことも、それと関係がありそうです。アンビエントという響には何か神聖なものを感じます。堤監督から出た「縄文」というワードにも、なぜか「アンビエントだ」という直感が走りました。

 その直感は、実際に遺跡に足を運んで「やっぱりそうかもしれない」という輪郭あるものに変わりました。

ライブを行う意味

 やはり身体を環境に委ねる行為は必要だと思いました。尖石遺跡へ行ったのもそうですし、先日は古いピアノを奈良県まで見にいったのですが、画像では伝わらないものをひしひしと感じました。

 ここ数年は特に画面越しの現実に触れることが多くなり、知っていることは増えました。しかし、感動する機会をそこで得ることは殆どありません。知ったつもりになって失うものが日々蓄積していることは認識しておく必要があり、そこから抜け出したいと思うのですが、なかなか及びません。

 ただ、ライブを行う意味は、そこにあるのだろうなと思います。訪れた人はどんな気持ちで帰えるだろうか?どんな感動を付加できるだろうか?また、僕自身も日常を離れた空間に身を委ねることで、感動の機会を得たいと思っています。

 できるだけのことを準備して、縄文とアンビエントを感じてもらえたらと思っています。

 と、この記事を書き終えて読み返していると、堤監督の方から215枚の監督の撮り貯めた写真が散りばめられた動画が送られてきました。それを眺めていると、まるでここに記した言葉とリンクいているような風景たちで不思議な気持ちに。そして仮で当てられているCSNのHelplessly Hoping(どうしようもなく望んでいる)というタイトルがそのまま縄文への馳せる思いのような気がして、ますます当日が楽しみになってきました!

FIELDS session02  ゲスト:堤幸彦

日時:2月23日(木・祝)開場 18:00 / 開演 19:00
会場:としま区民センター多目的ホール(東京都豊島区東池袋1丁目20−10)
​料金:前売 4,500円 / 当日 5,000円
出演:笹倉慎介・堤幸彦
(笹倉慎介バンドセット・Bass 千葉広樹 / Drums 山本達久/ Key 谷口雄)

チケット受付:ZAIKO / BASE / イープラス
※チケット購入者には2022年12月26日に行われた笹倉慎介レコ発ライブの動画フル視聴URL付き
注1・ZAIKOまたはBASEにて購入のお客様はメールにてURLを配布いたします。
注2・イープラスで購入の場合:コンビニなどで発券されたチケットに動画URLが記載されております。




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