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あさま山荘事件への道程(補足記事)

2022(令和4)年2月28日にて、連合赤軍によるあさま山荘事件から50年の節目を迎えた。本当は事件ではなくテロ行為ですが。さて今回記事かくのは、Twitterにおける私のフォロワーさんのあさま山荘事件記事を補足するためです。念の為Earuさんの記事を観てからこちらの記事を読んで頂きたいです。

1960年代末の学生運動

東大闘争における安田講堂

1960年代末の日本は学生運動の嵐で吹き荒れた。佐世保エンタープライズ阻止闘争や佐藤栄作外交阻止闘争など政治色を帯びたものであったが、中には渋谷暴動のように警察官をゲバ棒でリンチし火炎瓶で焼き殺すという常軌を逸した行為までみられた。そしてその学生運動の頂点だったのが、日本各地で行われた大学紛争である。1968年、学生運動活動家は全学共闘会議いわゆる全共闘を組織して大学にてストライキを始めた。もともと全共闘の活動は大学における医学部のインターン制度廃止などの大学に関わる案件を目的としていたが、学生運動末期になってくると政治闘争と化した。

山本義隆全共闘議長(論座より)

それは中国における毛沢東の文化大革命を大いに影響しており、東大正門には「文化大革命・造反有理」と落書きするしまつであった。そして1969年の1月、東大闘争は終局を迎える。学生運動活動家ら(東大出身は一部で大半は全国の大学からの集団)は、火炎瓶や石などを集めて闘争を繰り広げたものの、機動隊による必死の鎮圧作戦により学生運動そのものが失敗となり、東大闘争終焉をもとに各地での大学紛争は鎮火していく。しかし一部の学生運動活動家らは政治闘争を諦めることなく、次の行動に移していく。

破滅への序曲 

東大闘争終焉後の学生運動活動家らは、夢見る政治闘争のために新たな組織「赤軍派」を結成する。メンバーは塩見孝也を筆頭に、田宮高麿ら多数の学生運動活動家であった。この赤軍派は「前段階武装蜂起論」・「世界革命戦争論」を主張し、1970年の安保闘争を見据えて活動を始めた。しかし、その赤軍派の多数は1969年の大菩薩峠における福ちゃん荘事件で多数逮捕され大きく打撃を受けた。

大菩薩峠事件(日本赤軍botより引用)

この大菩薩峠事件は赤軍派の活動に影響を与える事件であった。大菩薩峠にあるF荘にて軍事教練を行っていた赤軍派の動きを察知した警察は、大規模作戦によって赤軍派を逮捕。壊滅的打撃を受けた赤軍派に、塩見孝也は「国際根拠地論」を提唱。世界各地に赤軍派の根拠地をつくり、そこで世界同時共産主義革命を行い、資本主義国家を暴力によって共産主義国家へと転覆させようというものであった。この理論は翌年の1970年のよど号ハイジャック事件や、日本赤軍の活動の根拠となった。さて、大菩薩峠事件で逃れた赤軍派は獄外メンバーとされ、日本国内での武力闘争を目指していく。だたし後の連合赤軍幹部にいる森恒夫はこの時いなかった。大菩薩峠事件以前に赤軍派を離れていたからだ。しかし、大菩薩峠事件後にて森恒夫は赤軍派のメンバーとして復活をする。

この赤軍派とはもう一方にグループがいた。「日本共産党神奈川県委員会(実在する日本共産党とは全く違う)いわゆる革命左派」である(今後は革命左派として表記)。この革命左派もまた学生運動活動家らによって結成された組織であった。これは文化大革命による毛沢東思想を影響としていた組織であり、活動基盤は別称「京浜安保共闘」とあるように、工業地域を主としていた。この革命左派はもともと川島豪らを筆頭として反米闘争を繰り広げていた。だが筆頭の川島豪が逮捕されると、革命左派の幹部に永田洋子らが就任。革命左派は武力闘争を開始し、真岡銃砲店襲撃などの武器を集めていく。しかし、この途中で革命左派の中にはメンバーが離反していき、革命左派は中京安保共闘のように地方出身らで組織されていく。

永田洋子(Yahooニュースより)


組織結成と恐怖の始まり

赤軍派と革命左派の両派は最初別行動であった。しかし日本国内での武力闘争を行うにしたがって、次第に両派は近づいていく。赤軍派はM作戦という名で各地の金融機関を襲撃し資金を蓄積。この情報は、資金欠如していた革命左派にとってまたとない好機であった。赤軍派にとっても、武器不足していた状況もあり武力闘争する上で革命左派に近づく必要があった。こうして1971年、連合赤軍が結成された。

<連合赤軍のメンバー>

委員長:森恒夫
副委員長:永田洋子
書記長:坂口弘
中央委員:寺岡常一・坂東國男・山田孝・吉野雅邦
その他

連合赤軍として発足したが、主導権争いが生じる。それは組織内での思想対立も含まれていた。これが後の悲劇に繋がるのだが、結果的には連合赤軍の主導は森恒夫と永田洋子(厳密に言えば森恒夫)が握る。森恒夫と永田洋子は組織内で偽装結婚しており、夫婦同然の生活をしていたからだ。この関係は連合赤軍のその後を決定づけた。そう連合赤軍といえばリンチ殺人が代名詞である。リンチ殺人の序曲は既に連合赤軍結成以前に存在し、レールが敷かれていた。

《印旛沼事件》

舞台となった印旛沼

赤軍派と革命左派は以前から山岳ベースで射撃訓練を行っていた。1971年、射撃訓練の最中に革命左派のメンバー二人が脱走。革命左派は当初呼び戻すだけでの予定であったが、既に主導的立場だった赤軍派の森恒夫が、秘密漏洩を防ぐための組織防衛としてメンバー二人を殺害するよう提案。森恒夫の提案は決定し実行される。
まず女性メンバーとの宴会を口実に、脱走した女性メンバーを誘い、睡眠薬入りの飲み物を飲ませる。印旛沼付近に女性メンバーを連れてくると絞殺。
脱走した男性メンバーも同じ手口で行うが、抵抗し宴会から抜け出そうとしたため、男性メンバーを抑えて絞殺。二人を印旛沼付近に埋めた。
こうして両派は組織内での越えてはならない一線を越え、結成以後連合赤軍はリンチ殺人を正当化していき、山岳ベース事件を引き起こしていくのだ。


リンチ殺人と組織の縮小

山岳ベース事件で被害者が埋められた現場(時事通信より引用)

印旛沼事件によって、結成以後連合赤軍はリンチ殺人を行っていく。
連合赤軍は武力闘争のために、各地を転々としていき、山岳ベースをその度に作り軍事教練をしていた。その度に、連合赤軍は組織内にでの規律違反者を総括対象としてリンチ。森恒夫はリンチ殺人を「真の革命戦士」として正当化し、自身自らもリンチしていった。ではここでリンチ殺人の一部内容を見ていく。

1.女癖が悪かったメンバーを、「反革命組織の思考が抜けてない」としてリンチを行い殺害。

2.総括中に男性メンバーとキスしていた女性メンバーを、「神聖な場所を穢した」という理由で縛り上げてリンチ。動けなると極寒の外へ放置。そのまま女性メンバーは死亡。

3.2の被害者とキスしていた男性メンバーをリンチし殺害。

4.指輪をしていた、髪を伸ばしていた、リップクリームを塗っていた等の女性らしさを、永田洋子が嫉妬したためリンチし殺害。

5.総括に積極的でなかったとしてリンチし殺害。

リンチ殺人の内容は一部ではあるが、連合赤軍でのリンチ殺人は常態化。永田洋子が主導したリンチは女性としての嫉妬心からなるものであった。こうして山岳ベース事件での被害者数は12人。この犠牲者数は連合赤軍を弱体化させる一因となった。

山岳ベース事件の被害者たち

森恒夫と永田洋子らの連合赤軍は山岳ベース事件の状況でも転々としていた。しかし、下山しキャンプ地へ戻ろうとするさなか、森恒夫と永田洋子は警察に発見され両者と共に逮捕。森恒夫は1973年東京拘置所に自殺する。
幹部二人の逮捕は組織をさらに弱体化。この後も連合赤軍のメンバー数人が警察に発見され次々と逮捕。残された連合赤軍メンバー「坂口弘・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤の弟」の5人は、長野県軽井沢町へ出向いたものの、軽井沢ニュータウンという当時新しい場所へ出てしまう。メンバー5人は軽井沢ニュータウンで無人であった「あさま山荘」を発見し侵入し、食事や着替えを行った。だが長野県警の機動隊があさま山荘を探索し、人がいる気配を察知。メンバーの坂口弘は機動隊に向かって発砲したため銃撃戦へとなった。こうしてあさま山荘事件は始まったのである。

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