「表現不自由展その後」問題の整理

*日本の右傾化が行くところまで進んだなかで迎えた令和新時代。この新たな中世を幸福なものにするため、国民の権利と義務は、適切に再調整されることが求められている。奇しくも令和元年夏に開催された「表現不自由展その後」は、「表現の自由」や「現代芸術」のあり方について、一石も二石も投じることになった……

*舞台となった「あいちトリエンナーレ」は、愛知県で2010年から3年ごとに開催されている国際芸術祭。第4回目にあたる今回は、ジャーナリストを名乗る津田大介が芸術監督を務める。「表現の不自由展・その後」は、「公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する」というコンセプトで企画された、その展示会内展示会だ。ちなみに「表現の不自由展実行委員会」自体があいちの参加作家という形式であって、不自由展に出品した作家は、あいちとは直接契約はしていない。従って展示作品の決定権は、不自由展実行委が持つというすでに歪な構造。その実行委メンバーは、アライ=ヒロユキ岩崎貞明岡本有佳小倉利丸永田浩三。彼らは2015年にオリジナル「表現の不自由展」を、練馬で開催していた。今回はその刺激性をそのままに、あいちへ呼びこもうというのが、猿でも分かる津田の算段さ。

【主な展示作品】(*
□「平和の少女像」 金曙炅金運成作。独裁政権に抵抗した、韓国の民衆美術の流れを汲むという。公式には「慰安婦像」ではないらしい。なお英文の解説では、慰安婦を「the Japanese military sexual slavery」と訳している。
□「重重―中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち」 安世鴻作。老婆の写真。
□「遠近を抱えて」 大浦信行作。シリーズもの。とりわけ問題となったpart2は、昭和天皇の写真を用いた自作品を焼却して灰を踏む映像作品。富山県立近代美術館の自作品を含む図録が焼却処分されたことがモチーフ。
□「焼かれるべき絵」 嶋田美子作。顔の部分が剥落した昭和天皇の写真に、「×」印をつけている。「遠近を抱えて」からの派生作品。
□「時代の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」 中垣克久作。かまくら型の外壁にさまざまな貼り紙。「日本は今病の中にある」など。天頂部には特攻隊(?)の寄せ書きの入った日の丸、底部には星条旗あり。
□「アルバイト先の香港式中華料理屋の社長から「オレ、中国のもの食わないから。」と言われて頂いた、厨房で働く香港出身のKさんからのお土産のお菓子」 大橋藍作。実物展示。
※なおネットで拡散された「安倍首相をハイヒールで踏む作品」は展示されていない。デマ。

【経緯】
7月31日 高須克弥百田尚樹らが平和の少女像(慰安婦像)についてツイート。
8月1日 あいちトリエンナーレ開幕。
8月2日 河村たかし名古屋市長が不自由展を視察。「平和の少女像」について、即刻展示を中止するよう大村知事に求めるとコメント。菅義偉官房長官が、補助金交付について「精査して適切に対応したい」と発言。夕方、津田大介が記者会見。事務局に脅迫を含む抗議の電話やメールが殺到していると説明し、少女像の撤去または不自由展の中止を検討すると発言。
8月3日 夕方、あいちトリエンナーレ実行委員長の大村秀章愛知県知事が、安全面の理由から不自由展を中止すると発表。「撤去しなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する」というFAXを紹介。一方で不自由展実行委は、決定は一方的なものだとして抗議文を発表。「圧力によって人々の目の前から消された表現を集めて現代日本の表現の不自由状況を考えるという企画を、その主催者が自ら弾圧するということは、歴史的暴挙」とし、法的対抗手段も検討と。
……
8月9日 貞本義行が「キッタネー少女像」とツイート(*)。
8月13日 あいちトリエンナーレ企画アドバイザーの東浩紀が、ツイッターで辞意を表明。「“表現の自由 vs 検閲とテロ”という構図は偽の問題」「中止に追い込まれた理由は、天皇作品に向けられた一般市民の広範な抗議の声」と(*)。
8月15日 津田大介がブログで「お詫びと報告」を発表(*)。

【主な批判・論点】
□批判が集まることを承知の上で、準備不足のまま不自由展を開催して、わずか3日で中断したことは、結果として「表現の自由」を後退させた。「表現の自由」を守りとおす気概がないなら、最初からやるべきでなかった。監督である津田大介の責任。
□極端な政治的表現は、公的な助成を受けた場所で公開されるアートとして許容されるのか。またそれに対する、国民・市民の代表である政治家の容喙は、検閲にあたるのか。
→ 権力を背景にした介入はやはり「検閲」にあたる。政治は、キュレーターの選定の段階で責任を果たすべき。大村秀章の責任はここにある。(T)
□「表現の不自由展」と称しながら、内容が左派的なものに偏向している。エログロや差別表現の欠落。これでは反安倍文脈での政治的な企画ととられても仕方がないし、実際そう。
□左派・リベラルが日本ヘイトをアートとして称揚する一方で、それ以外の表現を任意に批判・糾弾する正当性は?結局、彼らは「表現の自由」を政治的な武器として利用しているだけ。
□不自由展実行委は、作家ではない。アートへの愛と敬意に欠けている。山川冬樹の批判(* * * *)。
□見たくないなら見なければいい。しかし見たくなくても目に入ってしまう。SNS時代のゾーニングのあり方。

【参考資料】
□明戸隆浩『あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐって起きたこと――事実関係と論点の整理』(*
□まとめ『津田大介監督「表現の不自由展・その後」の顛末(炎上篇)』(*

*このレジュメは、令和元年8月31日に多摩某所にて開催された「皇室と日本を考える」月例会での議論のために作成したものを、多少編集したものです。冒頭の前振りに対して、あまりオチがついてない気もしますが。まあ気にせず公開しておきます。それにしても一夜の夢のごとく、楽しい集まりでした。翌日は二日酔いがひどかったですが。皆さんありがとう。

しきしまの大和心をつたふるは 夏の夜にちる花火なりけり

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