見出し画像

躊躇               ――画像しりとりはじめました(#66)

(#65) ハンカチ→「ち」→「躊躇」

僕を助けてくれた浦島くんが
子どもたちに逆にボコられてるけど

僕は… 僕は…


 日本の昔話の定番中の定番、『浦島太郎』。
この物語のオープニングは、太郎が浜辺で子どもたちが亀をいじめているところに遭遇する場面なのだが、亀をいじめている子どもたちがこんな感じの面々だからまだいいが

第三期国定教科書、『尋常小学校国語読本』(1928)
でも、太郎の右手の先にいる子どもは、なかなかオラオラな雰囲気が出てる

いじめている面々がこんな感じだとしたらどうするよって話。

「腐ったミカン」加藤優の魂の叫びに立ち上がった荒谷二中の生徒…ではない

それでも、いじめてる亀を助けるべく介入する太郎だが、
「おっ、なんだてめぇ、なんか文句あんのか、メーン?」
とかなんとか言われて、今度は自分がボコられるはめに陥るというのは、至極当然な成り行きである(*´Д`)

――で、今回のネタ画像。難を逃れたカメくん、自分を助けてくれた太郎がボコられてるさまを遠巻きにただ見つめることしかできないでいる。なんとかしなきゃ、という気持ちはあるけど何もできない。

 この様子を見て、どう思われるだろうか?

多勢に無勢だもん、傍観もしかたないよね」だろうか。それとも
助けてもらったのに、自分だけ助かればそれでいいのか。おまへも戦え」だろうか。

 考え方や意見は人それぞれだし、どれが絶対的な正解だとは言えない、個人的にはそう思う。

 そのうえで、自分がもし太郎の立場だとしたら
黙って見てないで、とっとと逃げろ、ボケ」だ。←口悪っ
こっちはそのために少々痛い思いをしているのだからして。
 これがもしもカメくんが勇気を振り絞って「わあああああ!」とか叫びながら、荒谷二中の生徒たち…もとい、いぢめっ子たちに突っ込んできたとしたら
はぁ? いやいや、なに余計な正義感ぶっこんでんだよ。それぢゃ助けた意味ないぢゃん
と思う。心の中では巨大な舌打ちのひとつも打ちたくなるところだ。
 もともとボコられてたのはカメくんなのだから、この状況で無闇やたらと突っ込んでこられても、形勢逆転などするわけがない。あとはカメと太郎、ボコボコにされる人数が増えただけだ。

 まぁ、理想的なというか模範解答的なというか、取りうる選択肢の一つとしては、「ダッシュで最寄りの交番なり警察なりに飛び込んで助けを呼ぶ
 これかな。

 ただ、カメくんの足でダッシュされても、おまわりさんの助けが来る頃には、すでに事は終了しているだろうなあ……とも思うし( ̄∀ ̄)

 なんか、こうして浦島太郎の冒頭、いじめのシーンの考察をしているうちに、いじめ問題とその周囲の傍観者たちについて、ちょっとだけ語ろうか…という気分になったが(てか、実はすでに10行ほど書いていたw) 、ちょっとしてから読み返してみたら、こんなおちゃらけた書き殴りの中にあまりにもテイストの違う問題提起やら特殊な主張やらが飛び出しても、
「おっ、どしたどした?」
「いや、真面目かっ(笑)」
となるだけのフルオブ違和感なので、そこらへんは稿を改め、機会があれば別の記事にしてみたいと思う(^^ゞ。

 というわけで、話はいつものおちゃらけ路線に回帰するが、そういえばという話題で、日本屈指のポピュラーな昔話『浦島太郎』のエンディングって御存じだろうか?

 まあ、一部ではわりと有名な話なので、御存じの方も多いとは思われるが竜宮城から帰還した太郎が、たった3年留守にしただけなのに、地上ではもう何百年という月日が流れていたことに愕然とし、開けてはいけないと念押しされていた玉手箱を開けた太郎は、中から出てきた煙に巻かれ、気がついたら老人になってしまったというラストシーン。

 実はこれ、まだ続きがあったりする。

 「浦島太郎の物語」は、古くは『日本書紀』や『万葉集』あるいは『丹後国風土記逸文』あたりに、浦島子伝説としてその原型が見えるのだが、物語としてのスタイルが固定し始めるのは、室町時代に成立した『御伽草子』とされる。

 そこでの『浦島太郎』のエンディングはこうだ。

 竜宮での夢のような歓待を受けた3年の月日を経て、残してきた両親の身を案じて帰りたいと告げる太郎。形見として「開けちゃダメよ」と念を押した玉手箱を渡して了承する乙姫。
 元の世界に帰還した太郎は、人々に両親の行方を尋ねるが一向に要領を得ず、そのうちにここが太郎がいた時代から700年もの月日が流れていることを知る。当然のことながら太郎の両親もすでに他界し、近くにある古い塚の下に眠っていると知らされる。
 戸籍も市役所もない時代の700年前、どこの太郎だかもよくわからない浦島太郎の両親のお墓、ああ、あそこです、と特定できるのも考えてみればスゴい話だが、まあそれはひとまず置いとくとして( ̄∀ ̄)。
 で、絶望した太郎が、「決して開けてはいけないよ」と念押しされていた玉手箱を開けてしまう。そこはそれ、混ぜるな危険と書かれていたら混ぜたくなるのが人情というものであるから(*1)、それと同じことを思ったか、太郎が玉手箱を開けると、三筋の紫の雲が立ち上り、太郎はみるみる老人となってしまった。

*1:混ぜるな危険と書かれていたら混ぜたくなるのが人情というもの:何が人情かは知らんが、それは絶対アカンやつである。

 ――とまあ、こここまではよく知られた話。しかし、この後、太郎はさらに変化して鶴になるのである。
 鶴になった太郎は、その後どこぞの猟師に鉄砲で撃たれ、手厚く看病してもらったおぢいさんに逆恨みをし――

――ではなく、そのまま蓬莱山(*2)へと飛び去ってゆく。また、時を同じくして、竜宮の乙姫も亀となって蓬莱山へと向かう。

 これが、『浦島太郎』の真のエンディングである。

*2:蓬莱山:古代中国で、はるか東の海上 (もしくは海中) にあるとされる仙人が住む場所。『御伽草子』の「浦島太郎」の源流となる『丹後国風土記』では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読ませていることから、ある種の理想郷という位置づけにもとれる。

 諸説あるが、能の『鶴亀』で「亀は万年の齢を経て。鶴も千代をや。重ぬらん」―いわゆる「鶴は千年、亀は万年」―と謡われているのも、この『浦島太郎』が源流とされているし、七五三の千歳飴の絵柄でもおなじみの「鶴亀」を縁起物として扱う習俗も、ここがオリジナルといわれてたりもする。

 ちなみに、『御伽草子』の「浦島太郎」の読み下しでは、丹後ではそれぞれ鶴と亀になった太郎と乙姫は夫婦の明神となって祀られた、とされている。

 さて、今宵の1曲は、蓬莱山で夫婦となって末永く幸せに暮らしたであろう太郎と乙姫に捧げるバラード。
 今週の7曲目、東京プリンで『この人

 東京プリンだから、バラードっていってもどうせ……と思ったら、そう、まさかのwフツーにちゃんとしたバラードである。
 なんや、東京プリン、やればできるやん (笑)
 ちなみにこの曲、シングルカットもされていて、そのジャケ写がまたほっこりするくらいに良い(*´∇`*)♪


 おっと、今宵ももうこんな時間だ。蓬莱山行の最終は23:50。急げばギリ間に合いそうだ。

 そんなこんなで、
明日も、なるべく多くの人が
大切な人を大切に想い、改めて感謝できるような一日でありますよう✨


■ おまけ
 今回の画像しりとり列車 (66両目) の前の車両です。タイトル「ハンカチ」と右下のネタ画像で、なにこれ?て引っかかりを覚えた方がおられましたら、時間が許すような時にでも、覗いてみてやってください。
 来訪者の中から、抽選で1名様に竜宮公認玉手箱 (Lサイズ) をお贈りするかもしれません( ̄∀ ̄)


この記事が参加している募集

X日間やってみた

こんなダラダラと長ったらしい記事に最後まで目を通していただき、その忍耐強さと博愛の御心にひたすら感謝☆です ありがとうございます ご覧いただけただけで幸甚この上なっしんぐなので サポートは、私なんかではなくぜひぜひ他の優れたnoteクリエイターさんへプリーズ\(^o^)/♪