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一か八か                   ――画像しりとりはじめました(#214)

(#213) まわりくどい→「い」→一か八か―――――――(7,240字)

おはようのび太くん
ボク、ドラえもん


……うそつけ



……いや、同じ誤魔化ごまかすにしたって、さすがにそれはムリがある( ̄∀ ̄)

てか、そもそもコイツはのび太なのか?(゜o゜)?――て話だし。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

このヘッダ画像を見た時――ていうか、とあるnote友さんの記事を読んだ時にこのヘッダ画像が脳裏に浮かんだ☆というのが正しい順序か^m^

そんな記事がこちら👇👇

原稿用紙1行分の長さ――ジャスト20字――で書く小説、というなかなか斬新なお題「小牧幸助文学賞」のひとつ(⌒⌒)🎵

そのお題に対する9215さんの作品がこれ――

寝室の押し入れの戸が少しだけ開いている。

コワっ!( ゚Д゚)!
めっちゃホラーやん! 絶対なんかいるヤツやん!
それに、タイトルの

「絶対に気にしないぞ!」

――ていうのが、またスリリングな味を添えていて良いですね(≧▽≦)🎵

気にしなければなんということはない。
別にそこには何もいないのかもしれない。
(ま、いるんだけどね^m^)

ただ、京極夏彦の『姑獲鳥うぶめの夏』(*1) ではないが、
いったん確認すれば、それが何を意味するのか。
量子力学の理論では「観測した時点で性質が決定する」
つまり、そのいらん確認をしたがために
そこに何かが「遡って存在していたことになる」のかもしれないということ――( ̄∀ ̄)コワッ

*1:『姑獲鳥の夏』:小説家・京極夏彦のでびう作。冒頭、主人公の関口巽とその友人にして古本屋の陰陽師 (笑)、中禅寺秋彦との会話の中で、量子力学が示唆する「不確定性原理」についての言及がある。
――過程はいささか長く複雑になるので大胆に端折ってしまうと、その結果が導くところは、極論すると
この世界は過去を含めて観測者が観測した時点で遡って創られる」というアンビリバボーなことになるようだ( ̄∀ ̄)
……まぁ、この舌っ足らずな説明だと、正直、なんのこっちゃのはてさてふむー (はてふむー)……(・_・)💦だと思われるので、興味をお持ちの方におかれましては、脚注1.より是非、原典で確認してくださいませ\(^o^)/

だから、
「絶対に気にしないぞ!」
は、平和な日々を平和で過ごすために必要不可欠な「無関心」なのだ。

でも、残念なことに「気にしちゃう」(=観測する) のが人のさがってモンよね

そして――

おはようのび太くん ボク、ドラえもん

あーあ、やっぱり出ちゃった^m^💦💦

いやいやいや✋ おかしい、おかしい( ̄o ̄)💦
なんでそこでボケに走る、ワシ ( ̄~ ̄)
せっかく、最小の字数にして最大の恐怖を醸し出す珠玉の文章✨

寝室の押し入れの戸が少しだけ開いている。

――を受けてるというのに……(・_・)

結局、全く動じた様子のない少年の後ろ姿から

うそつけ

を導き出すことでホラー要素が完全に消え失せ、
「小牧幸助文学賞」が「IPPONグランプリ」になってしまったではないか。
(しかも、ボケにしたってIPPONとれるかどうかといえばビミョーなレベルだし💧)

……ま、所詮オイラにゃ、20字でホラーを書くなんてムリってことか……
(いや、別にホラー限定ちゃうぞ)

あ、ちなみに
「おはようのび太くんボクドラえもん」「うそつけ」
と続けて記述すれば、20字小説になるかな?^m^

……と一瞬思ったが、「小牧幸助文学賞」の要項を見ると、
"「」『』()等のカッコの類" も字数に含まれる
みたいなので、結局20字では収まりきれないようだ(^^ゞ💦💦

だが「」を外しダッシュ(―)にして最低限2人の会話という体を確保し、「ボク」を「僕」にすることで一字節約すれば、

おはようのび太くん僕ドラえもん―うそつけ

おっ🎵 これならジャスト20字になるぞ(≧▽≦)♪ヤター
――って、これ、このヘッダ画像があるからギリ大喜利として成立する (*2) のであって、何もないフラットな状態で

おはようのび太くん僕ドラえもん―うそつけ

言われたら、なんのこっちゃ(・_・)
としか言いようがない。

やっぱアカンか( ̄∀ ̄)💦

うーん……難しいね^m^💦
も少し考えてみようかねぇ……

*2:ギリ大喜利として成立する:無論、面白いかどうかは別問題だ。←いや、そここそが大問題だろ、大喜利なんだから( ̄∀ ̄)💦

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

そもそもこの記事のタイトルは「一か八か」である。
押し入れからひょっこり顔を出すバケモノの態度が「一か八か」て誤魔化しに入ってる時点で、すでにホラーではなくなってるのよねー……( ̄∀ ̄)💦

ここらへん、同じタイトルでも9215さんの
「絶対に気にしないぞ!」
との差は歴然だ。

ちなみに、この「いちばち」とは、
上手くいくかどうか分からないが、出たとこ勝負でやってみる様子」(新明解国語辞典) 
を表す慣用句なのだが、
なんでまた「1」と「8」なんやろ?(゜o゜)?――という基本的にして素朴な疑問がふと頭に浮かんだ。

うっすらと、確か賭博用語が由来だったよなぁ……くらいは学生時代に調べたような記憶があるのだが、よくよく考えてみたら、「1」と「8」である理由って何なん?
そう聞かれたら、明確には答えようのない自分がいる。

こいつはいかーん!( ゚Д゚)!
ワシは、そんな大事なことをうやむやにしたまま、この慣用句を恥ずかしげもなく今まで使ってきたというのか?
恥を知れ、恥をっ!

――というわけで、またまた付け焼刃の勉強開始だ^m^

そもそも、今更になってなぜそんな疑問が湧いたのかというと、この慣用句の由来になっているかもしれない賭博、日本古来からの数字を扱う伝統的な賭博といえば、真っ先に浮かぶのが

丁半博打ちょうはんばくち

だからだ。

改めて考えてみると、丁半博打においては「1」も「8」も、大した意味を持たない。

ちなみに、丁半博打とは正六面体の骰子サイコロ2つを使って行う日本の伝統的な賭博であり、2つの骰子の出目の合計が偶数 (丁)奇数 (半) かを賭けるという極めてシンプルなギャンブルである。

そう、丁半博打に使われる骰子サイコロは2つなのだ。
数で言うなら出目は⚀⚀の2から⚅⚅の12の範囲。
1はそもそも出ないし、8は出るけどだからどうした(・_・)……って世界で大した意味が感じられない (*3)

*3:だからどうした……って世界:強いて言うなら、骰子サイコロ2つの出目における「8」は、「7」の次に出る確率の高い――いわゆる「平凡な出目」なので、確率の低い数字との対比表現の一角とするなら、多少の意味がある数字と言えなくもない。
(でも、それで言うならやはり「八」ではなく「七」にすべきだろうしなぁ)


ていうか、骰子サイコロ2つで出る最小の2も、最大の12も、丁半博打で言うなら

どっちも「丁」ぢゃん

――て話だし。
あるいは、「半の最小」と「丁の最大」を対比させようとするなら、確率論的に言えば
「一か八か」ではなく

三か十二か

というべきだろう。
……掛け算九九の三の段みたい (*4) で、なんか今イチ締まらんのぅ……
( ̄∀ ̄)💦

*4:掛け算九九の三の段みたい:それは「三四さんし十二じゅうに」。

無論、逆の「丁の最小」と「半の最大」を対比させてもいいが、そうなると

二か十一か

という、さらに語呂も座りも悪い言葉になってしまう。

いずれにせよ、丁半博打と「一か八か」とはどうにも相性が悪い。というか、極めて個人的な肌感覚だが――しっくりこないのだ。

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まぁ、私みたいな凡愚が頭をこねくり回したところで……
て話なので、とりあえず「一か八か」の一般的な語源を調べてみたのだが、有力とされる二つの大きな説は、いずれもやはりこの丁半博打がその由来とされているようだ。

だが、その二つとも、個人的な感覚ではやはりしっくりこない。

「丁半博打由来」説の一つ目は、
丁半博打の『丁半』の上半分をとった」説。

上半分?(・_・)?――なにそれ?

一瞬……いや、優に数瞬以上は頭の片隅にハテナマークをぎょうさん浮かべたまま考えた末に、あぁ、そういうことか……と、どうにか理解できた。
つまり、「丁」の上半分にある「一」

同じように「半」の上半分にある「八」――おいおい「八」が天地テレコやがなw
一瞬そうツッコませかけるが、旧字体の「半」はちょうど「絆」のつくりのような「半」なので、こう (👇) なるからまぁいいか――って

いやいや✋
まぁいいか、ちゃうわ。問題はそこぢゃない。
「丁半博打」の「丁半の上半分をとる」って、そりゃさすがに

こじつけ過ぎひん?(・_・)?

賭博用語だから隠語化した……って説明を加えてるものもあったけど、それを加味してもさすがに「無理やり感」が半端ない。少なくとも私にはそう思える。

「丁半博打由来」説の二つ目は、
『一かばちか』が転化した」説。

即ち、サイの目が「」が出て成功するか、あるいはそれ以外の目が出て失敗に終わる――「ばち」が当たるか、
てことらしいのだが、これまたなかなかのフル・オブ・こじつけ感。
「『一』という具体的な出目」と「『罰』という抽象的な事象」を天秤の両方に乗せるというのが、対比の概念としてもかなりの無理筋だ。

それに、百歩譲ってその無理筋に乗ってみたとしてもだ、
賭けに出て失敗したら「罰が当たった」て(笑)
一体全体どの神さまに祈ったのか知らんけど、真っ当な神さまなら賭博にうつつを抜かしてる時点で罰当てられとるんちゃうん?^m^
よしんば賭け事の神さま――そうだなぁ、日本で言うなら賽の神とか七福神の毘沙門天あたりか?――に祈ってたとしても、思うにまかせぬ目が出て負けたからって、それを神さまのせいにされてもねぇ( ̄∀ ̄)
それこそ、そのいじましい心根に罰当てたくなるんぢゃないかい?
……そんな風に思えてくる。

ていうか、何度も言うてクドいようだが

骰子サイコロ2つ振って「いち」は出ぇへん

言うてるやろがい💢( ̄∀ ̄)💢

まあ、骰子1個で勝負カタがつく「大目小目」か「ちょぼいち」(*5)でもやってるならまだ分かるが、それにしたって使う骰子が正八面体でもない限り、「一か八か」ではなく「一か六か(*6) だろうて。

テーブルトークRPG等ではおなじみの8面ダイス
これで「大目小目」やるなら「一か八か」でもオケーイ?(o^-')b♪

なお、「一か八か」の「はち」が「ばち」と濁る (濁音化) ことについては、音韻学的には連濁 (*7) の一種だと考えた方が、一応は日本語のネイティヴである自分の感覚的にはしっくりくる。少なくとも「一かか」よりは。

*5:「大目小目」か「ちょぼいち」:いずれも骰子1個を使ってプレイする賭博。
「大目小目」は、1個の骰子を振って「1・2・3」が出たら「小目」、「4・5・6」が出たら「大目」で、そこに賭けていた人が配当を得るというシステム。う~ん、シンプル(笑)。
「ちょぼいち」は、1から6までのどれか1つに賭けて、その目が出たら配当を得られるというシステム。う~ん、これまたシンプル(笑)。

*6:一か六か:詳細については時間切れで十分に追跡できなかったが、江戸時代には「一か六か」というフレーズも実際に存在していたらしい。

*7:連濁:二つの語が結びついて一語になる時、後ろの語の語頭の清音が濁音に変化するという、日本語における連音現象のこと。「生ける」+「花」で「生け花 (いけな)」とか、「人」+「人」で「人々 (ひとと)」とかがその一例。
「一か八か」の場合は、厳密に言えばこの連濁のカテゴリーに入れていいかどうかは疑問なのだが、個人的には
「いちかちか」と発音するより
「いちかちか」と発音する方がスムーズな気がするので、ネイティヴ・ジャパニーズの肌感覚を信じて、あえてこう表現してみた次第。専門の方がもし目にして「こんなん連濁ちゃうわ💢」と思われたら、ただひたすらゴメンナサイm(__)m――である。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

こうして語源を調べていても今ひとつモヤモヤが払拭しきれないまま途方に暮れかけた真冬の夜。
しかし、もう少し粘っていろいろと調べていくと、

一か八か釈迦十しゃかじゅう

という、謎のフレーズに行き当たった。

おぉ☆なんだろう、この「一富士、二鷹、三茄子」の後の「四扇しおうぎ五煙草ごたばこ六座頭ろくざとう」を知った時のようなお得感というかいいモン見つけた感(*´▽`*)✨
なんかこれ、とっても良い予感がする。

さらに詳しく調べてみると、
どうやらこのフレーズ、カルタ賭博で使われる用語が語源のようだ。

カルタ賭博( ゚Д゚)!

こいつは迂闊だった。
数字を扱う博打いうたらつい骰子を使う丁半博打だけに思考が猪突猛進してしまったが、西のホンビキ、東のアトサキ、メジャーどころではオイチョカブに花札……
カルタ賭博だってどれもフツーに数字を扱っているではないか!( ゚Д゚)!

さて、そんな迂闊な見落とし野郎は横に置いといて、
一か八か釈迦十か」についてもう少し深堀りする。
このフレーズは、おいちょカブや京カブといったいわゆる「カブ系」のカルタ賭博で使われる言葉らしい。

なお、おいちょカブのルールについてざっくりと説明すると、配られた2枚ないし3枚のカード (カルタ) 数の合計数で勝敗を決める博打であり、
最高が9、最低が0、合計数が10を超えたら1の位の数となる (合計数が12だったら「2」、10だったら「0」)。
まぁ、西洋のトランプでいうブラックジャックかバカラみたいなものだと考えてみて概ね差し支えないだろう。

なるほど、これなら「一か八か」が意味的に醸し出す「All or Nothing」(*8) 感がかなり出てくる。なにせ、一と八の組み合わせの「カブ(9)」なら絶対的な勝ちだが、一つ多く出て「ブタ(10)」になったら絶対的な負けになるのだから。
「絶対的な勝ち (9)」と「絶対的な負け (10)」が隣り合っていて紙一重なところが、なんともスリリングでいかにもギャンブルしてる感じがするではないか(≧▽≦)

*8:All or Nothing:英語のイディオム。字義的には「全部か無(ゼロ)か」ということで、成功すれば全てが手に入るが失敗すれば全てを失うという、まさに伸るか反るかのスリリングな言葉である。

無論、「一か八か釈迦十か」が省略された形という「おいちょカブ由来説」もまた、「一か八か」の語源にまつわる諸説のうちの一つにすぎず、語源の決定打とまでは言えない。

ただ、個人的には丁半博打由来という説に比べれば、はるかに納得のいく説だと感じている。

……まあ、その場合、後段の「釈迦十か」もけっこう重要な要素だし、そない簡単に省略してええんか?^m^?
――て気もしないでもないがのぅ……( ̄o ̄)
(「一か八か」だけやったら、絶対勝つやんww)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

なお、若干蛇足かもしれないが、せっかくなので「釈迦十しゃかじゅう」についても少し触れておきたい。

おいちょカブや京カブに使用される「株札」は、鉄砲と一緒にポルトガル人によって持ち込まれた「カルタ」を基に作られたもので、1から10までの数札がそれぞれ4枚で40枚、これに白札1枚を加えた41枚で1セットである。

株札

で、この10の札には人物が描かれているのが特徴でもある。
現在では「十(とう)」に引っ掛けて「お父さん」なんて呼ばれたりもするのだが (実際、図柄もトランプのキングっぽいしねw)、これが「釈迦十」と呼ばれるに至った経緯は、いささか……ナニだ( ̄∀ ̄)。

残念なことに、オリジナルのポルトガル「カルタ」(南蛮かるた) についてはその具体的なデザインや枚数等に関する確固たる史料が存在していないようだが、それを基にして国産オリジナルとして作られたものはある。
それが、今日「天正かるた」と呼ばれるものだ (脚注2.)

天正かるた」は、棍棒パウ刀剣イス金貨オウル聖杯コップ、という4種類の紋票スートに、1から9までの数札、これにそれぞれの女王ソウタ騎馬ウマ国王キリという絵札で構成される12×4紋票スート=48枚1セットである。
ほぼ現在のトランプに近い。

で、この10の札は絵札であり、描かれているのは「女王」――ポルトガル語で女王を意味する "sota" をそのままとって「ソウタ」と呼ばれた。

天正カルタが作られ始めたのは文字通り天正年間 (1573~1592) だが、時代を経ていくにつれ、描かれていく人物に変化が生じてくる。

もともとはそれぞれの得物 (棍棒パウ刀剣イス) で龍を攻撃している勇ましい女王だったのだが、それが徐々に火焔太鼓や琴とともに舞う優美な女性へと変化していった。

そして、天正カルタが作られるようになってからちょうど100年ほど経った延宝年間 (1673~1681) 頃には、ソウタはついに男性――坊主にされてしまったのだ(*´Д`)💦
また、呼び名自体もこの頃には「ソウタ」から数字の「じゅう」へと変化しており、「棍棒パウの十」は「釈迦十」と、「刀剣イスの十」は「簾十すだれじゅう」もしくは「鯣十するめじゅう」と呼ばれるようになった。

ちなみに、天正カルタとは別系統で作られ、なぜか熊本県人吉市にだけひっそり脈々と受け継がれていった「うんすんカルタ」では、「ソウタ」の女性形はキープされている。
ただし、扱いは「女従者」だったりするのだが……^m^💦
(呼び名が「女王 (sota)」のままなのが、また何とも……)

釈迦十になる前の棍棒パウ女王ソウタ(10)
『雨中徒然草』(左)、天正かるた(復元―脚注2.)(中)、うんすんかるた(右)


当時の日本では「戦う女性」――特に「戦う上流階級の女性」は、まだまだピンとこなかったのかねぇ(・_・)
この一連の変遷なんかを俯瞰すると、「戦うのは男性」という当時の世相というか固定観念みたいなものや、そもそも論での女性のステイタスとかすらもが窺い知れる気がしてちょっとだけ切なくなる。

なお、戦前に作られた山興製の天正カルタの十はこんな感じだ。

うーん……もはや坊主ですらないやん……(・_・)💦
退治されるべき龍も、戦うどころか紋々にして取り込んでますやん……^m^

個人的には、「戦う女王ソウタ」に生き残ってほしかったなぁ。
あとはまあ、男性形にされるにしても、せめて、こんなソウタだったらまだ良かったような気もする。

ビジュアル的には、ちと弱そうだが(笑)
多分、切り札としては「最強」やぞ( ̄∀ ̄)♪
(なんたって、✨八冠✨やからなぁ^m^)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

さて、最後の最後に蛇足をさらに重ね、いっそこの蛇、龍にまで成長させてみようか( ̄∀ ̄)

ここまで、いつものようにああでもないこうでもないとウダウダと長ったらしく書き殴っているうちに、例の「20字小説」っぽいものが頭に浮かんできたので、「一か八か」形にしてみる――

お早うからお寝みまで僕を見つめていた彼女


……まあ、「小牧幸助文学賞」の件の企画はとっくに締め切りが過ぎているので、一か八かではなくフツーに釈迦十なのだが^m^

とりあえず、この20字をロマンスと捉えるかホラーと捉えるかは、

貴方次第です

――ってことでね( ̄∀ ̄)
今宵はこれにてお開きとさせていただこうかしらん(*´꒳`*)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

今宵の〆の一曲は、
KENNY LOGGINS & GLADYS KNIGHTで『Double Or Nothing

"All or Nothing" なら「一か八か」だけどね( ̄∀ ̄)

シルベスター・スタローン主演の映画『ロッキー4/炎の友情』の挿入歌。
ロシアがまだソ連だった頃、時代的には東西冷戦がゴルバチョフの登場によりちょっとだけ雪解けムードへの期待感が……って頃のアメリカ万歳なストーリー。

1980年代以降の映画のサントラにはオムニバス形式で多くのアーティストの曲が聴けたので、個人的には知らないアーティストへの入り口としてもけっこう活用していたりする。

このデュエット曲を歌ってる男の方、ケニー・ロギンスは、そういうサントラ盤になかなかの高頻度で曲を寄せてたなぁ……という印象が強い。

『フットルース』(1984)……『FOOTLOOSE』、『I'M FREE』
『トップガン』(1986)……『DANGER ZONE』、『PLAYING WITH THE BOYS』
『オーバー・ザ・トップ』(1987)……『MEET ME HALF WAY』

パッと思いつく主だったところはそんな感じか。


そんなこんなで、
明日も、なるべく多くの人が、一か八かの勝負に出たとしても、その結果が釈迦十なんてことにはならず、せめて「フジイのソウタ」になりますよう
( ̄∀ ̄)



■ おまけ

今回の画像しりとり列車 (両目) の前の車両です。タイトル「まわりくどい」と下のネタ画像で、なにこれ?て引っかかりを覚えた方がおられましたら、時間が許すような時にでも、覗いてみてやってください。

■ 参考・出典

1.

2.

3.


こんなダラダラと長ったらしい記事に最後まで目を通していただき、その忍耐強さと博愛の御心にひたすら感謝☆です ありがとうございます ご覧いただけただけで幸甚この上なっしんぐなので サポートは、私なんかではなくぜひぜひ他の優れたnoteクリエイターさんへプリーズ\(^o^)/♪