見出し画像

2021年9月闘病記No.3


「心理的欲求」と「身体的欲求」で人は病気になる。

ある意味、人は好きで病気になり怪我をする。

私はコロナには興味がなかった、はなから興味がなかったのだ。
だから、私は最初から山の上で、人と集い、コロナに関係なく生活していた。

命、人類という存在の原理原則を理解していれば
コロナに怯える必要もなる必要もなかった。

「あなたには何歩も先が見えるのだが、目の前しか見えない人にはあなたのことは全く理解不能だ」とよく言われる。
震災後、頭を剃髪し理解されなかったが、ある有名な先生に「私のまわりにはあと二人、剃髪した人がいますよ、このくらいの感性はあって良いものですよ」と言われた。
理解できないことを理解しようとしなくて良いので誰かを責めているわけではない。

しかし、今回の原因不明の咳と熱は
私が引き起こした事実であり、自分が作った痛い現実であった。

私はいろんなことに責任を持ちすぎていた。
自分が何とかできることは全部自力で何とかしようとしていた。
勝手な過剰責務であった。
世の中をみると、全てが狂いすぎており、文明の終焉を感じざるを得なかった。
もしも、時計を巻き戻すように、人の在り方を変えることができるなら命を捨てても構わないとすら思ったし、絶望から涙が出ることも多かった。

あれも、これも、なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃ
思うほど足は動かず
その渦が自分を覆い、何をしていても落ち着かないような状態になっていた
何かにつけ、思うように進まないことにイライラするようになっていた

病気を呼んだのは

自らの過剰責務で
自分本来の喜びが、どこかへ逝ってしまっていたからだ
どこかで周りを責めていたからだ
単純に「喜びたい」「愛し合いたい」「豊かに生きたい」「楽しみたい」
本当の気持ちをどこかに追いやっていたからだ
限界だったのだ

師事している声楽の堀江秀一先生のレッスンを今回は見送った。
先生は「今はレッスンはしない方がいいです、あと5日で治りますよ」と言って帰られたが、5日目に本当に熱はすっかり下がり、峠を越えた。

あとは咳の問題。
私の本音の言葉が出たら、咳は終わる。
普通の人には、信じられないことかもしれないが、そのくらい、身体というのは本来、優秀なものなのだ。
真剣にヨガ行者として身体を向き合ってきた自分にはわかる

病気は駄々をこねているこどもなのだ。
ひっくり返って泣き喚いている
欲求が満たされたら、こどもはニコッとして立ち上がる

本音まで、本音まで、あと数歩のような気がしている。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?