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共感覚界隈のことと6/16の庭

いくつかのマガジンを整理しました。
このマガジンが日記代わりになっていく、はずです。

共感覚、に近い、ということで 共感覚界隈。

このカテゴリーの名前を「共感覚界隈ノート」としました。
でも、実は、以前は「共感覚」ということばを自分の体験や仕事(音楽を描く、という講座をしています。)のこととして使うのは、ずいぶんと違和感がありました。
でも、自分の文章をいろいろ読み直してみて、私の言っていることを理解してもらう糸口としてやっぱり「共感覚」が近いっちゃ近い、そして他の言葉が浮かばない。なので、思い切って共感覚界隈、ってことでやっていこうと思います。

界隈なので、いわゆる共感覚とは少しずれていくと思うのですが。
まあ、そこから先は慌てないで、ゆっくり自分で解いていくことにします。

感覚を”五感”、というのは荒い気がする

私は、いわゆる共感覚者、という人たちのようなわけでもありません。
文字に色が見える、とか、音に色がついている、という感覚を持っているわけではないのです。なんとなく言われてみたら 「あ」は 赤っぽいとか言う感じのそれっぽい、というのもありません。
でも、もし、だれかに
「あなたは視覚優位ですか? 聴覚優位ですか?」と尋ねられると、とても困ります。みているものをきいている、きいているものの陰影をみている、というような、感覚とはそういうものでしかありえないからです。私にとって。これを共感覚、と呼ぶのかどうかわかりませんが。
感覚を5つの感覚器官( 耳・目・舌・鼻・皮膚) に則して5つに分類して「五感」と言いますが、私には、どうしてもこれがとてもあらっぽく感じます。


みるようにしてきく

きくようにしてみる

重力のなかで音楽を作る

音に触れる

ことばを嗅ぐ

形をきく

そしてもちろん音楽を味わう

おそらく、私にとっては、感覚というのはそういうもので、
「五感」というと、どうも外からそれを見ているような気しかしない。

でもこれって、結構普通じゃないですか?

すごくあらっぽい仮説なのですが、
人間の外にたくさんの情報が浮遊している。
人に切り取られることのない情報は、それ自体が、全体性を持っている
これを、人は感覚器官を通して、分断して情報を受け入れる。
そして、受け取る管制機関は再び人の中で世界を結ぶ。

そもそもが感覚というのものは分断されているのではなくて、
人はデフォルトで「共感覚的」なのではないか、

どうも私の発想の原点もここにある気がするし、
そもそも私は何を喋ってもそうなってしまう。

そして、「音楽を描く」という講座で実際 音楽の相を描き出してみると、私みたいな変な感覚の持ち主でなくても、ちゃんと伝わったり、はっと何か気がついたりします。長い時間をかけて、ドローイングをくりかえすと、音楽はきくものではなくて体験的なものになるから「音楽が楽しくなった」といってもらえます。

それはもしかしたら中村雄二郎という哲学者が書いていたような、本来人どうしが共有している「共通感覚」というやつかもしれません。共通感覚、ということばの中には、一人の人の感覚の統合だけを意味するのではなく、自分と他者の間にも伝わり会える感覚の世界がある、ということでもあります。でなければ、人は音楽もことばも共有できないはず、の。

とはいえ気楽に日記です。

いつもいつも共感覚のことを書くのではありませんが、
根っこにあるのがそこ、ということにして、仕事のことも庭のことも、生活のことも一緒くたに(それも共感覚的に)書いていってみようとおもいます。
ということで、明日からは普通に日記書きます。

6/16の庭

15日は大雨で、倒れてしまったあじさいなどの花を花瓶にさしました。

ブラックベリーが収穫期。

です。以上。

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!