抱きしめたい/東京ビートルズ

お気づきの方もいるかもしれないが、時折、「曲名/アーティスト名」のタイトルで記事を書いている。この記事がまさにそうだ。しかしこのタイトルには理由がある。我々は、「愛すべきおバカ曲」というテーマの下にこの記事を書いている。そこには、愛情とおバカさの両方が等しく揃っていなければならない。どちらに肩入れすることもできない。だから、客観的なタイトルを付けざるを得ない。ということにしておこう。

1964年。

各国のチャートを席巻する革新的なビートルズと、ビートルズにステージから蹴り出されている(そしてそれに全然気付いていない)古き良きジャズ。Chikarumがそういうテーマで一本書いたので、ここはひとつ、下の句を詠んでみよう。

1964年。

そう、東京オリンピックの年である。

敗戦後、どん底から必死の努力を重ねて苦節20年。ようやく列強諸国から認められるに至った(と日本国民が信じることができた)年である。

敗戦によって失った自信。長く辛い時を経て、ようやくそれを取り戻した。そして今、このオリンピックを機に、日本は、さらなる跳躍を見せるのだ。20年かけて、ようやく追いついた。ここからは一気に追い越すのだ。

東京ビートルズは、そういう年にデビューした。

それが、彼らの悲運である。

1964年。

この年、本家ビートルズは、最初の商業的なピークを迎える。

本国イギリスでは、ビートルズは、その前年(1963年)の時点で既に大成功を収めていた。なんと、デビュー・アルバムとセカンド・アルバムが、連続51週間、アルバム・チャートの第1位を占め続けたのである。51週間というと、ほぼ1年に相当する。想像もつかない。

単純に比べられる話ではないけれど、米津玄師やKing Gnuだって、オリコン1位をキープできるのは、せいぜい5週間だろう。それが1年続いてみようものなら、どうなるか。もはや、彼らを殿堂入りさせて、2位のOfficial髭男dismを1位にしてあげたくなるのではないだろうか。

しかし、ビートルズには、そういう種類の居たたまれなさは無関係だった。イギリスで1年間にわたって燃え盛った火は、ようやく1964年になって大西洋を渡った。一度渡ってしまえば火のめぐりは早く、2月に、あの「エド・サリヴァン・ショー」に出演して全米最高視聴率の記録を塗り替えたかと思えば、4月4日にはビルボードのチャート1位から5位までを独占するに至る。とてつもないことだ。

もちろん時代が違うと言ってしまえばそれまでだけれど、世間の熱狂ぶりたるや、実に恐ろしいものであった。ビートルズを一目見るため、コンサート会場はおろか、空港やホテルにまでファンが殺到した。そうして念願かなって一目見た瞬間、失神する者もいたそうだ。ちゃんと、見たこと覚えてるんだろうか。

とにかく、アメリカ市場に火がついた今、ビートルズ人気が世界に燃え拡がるのは、時間の問題だった。

音楽に限った話ではないけれど、文化は、一旦商業主義と結びつけば、爆発的に拡散する。革新的な文化には、商業主義がコバエのようにどこからともなくやってきて、一度そうなってしまえば、文化が蚕化するまで、それほど時は要しない。

しかし、1964年当時、世の中は、それほどスピーディーではなかった。新しい文化を飼い馴らすには、それなりの時間を要した。

それもまた、東京ビートルズの不運である。

1年戻って、1963年。

「上を向いて歩こう」が、ビルボード1位を獲得した年である。

いま聞いても、なんと美しいメロディーに、詩情あふれる歌詞であろうか。胸に迫るものがある。日本人としての根っこの部分を、まわりの土ごと、ふんわりと包み込んでくれる感じがある。

1963年、この曲が、あのアメリカを制覇した。これもまた、日本が自信を得たできごとのひとつだっただろう。

日本の文化が世界に通じる。当時の日本人は、そういう確信を得ただろう。その確信は、翌1964年、東京オリンピックと相まって最高潮に達した。

しかし、不幸にも、彼らは、そこでビートルズに接するのだ。

とにかく、うまく言えないけれど、「上を向いて歩こう」とは、何かが決定的に違う。とにかく新しい何か。コカ・コーラを初めて飲んだときのように、思わず咽せてしまうけれど、同時に抗いようもない美味さが迸る。瑞々しい現実は、漸く得た自信を軽々しく打ち砕く。

しかし、これからの日本、世界を担う僕らが、挫折を認めるわけにはゆかない。この20年の自負がある。僕らは、きっと、この新しい音楽を咀嚼できる。そう思いたい。いや、そう思わなければならない。だって、何と言っても、今は1964年だからだ。

ロックとは何かなんて、全然わからない。演奏も歌も下手だし、何がいいのか、さっぱりわからない。でも、これを理解しなければならない。日本人として、一度失いながらようやくもう一度つかんだその矜持を保つためにも。

東京ビートルズは、そういう切迫感に対して、とても敏感であった。そして、それゆえに、彼らの音楽は、1964年の空気を、ザラザラした手触りを残したままパッケージすることに成功したのである。

それではお聴きいただこう。

東京ビートルズで、「抱きしめたい」。

この「抱きしめたい」の日本語詞は、名訳と言ってよかろう。

初っ端、イントロから存在意義が分からないサックスが入ってきて、原曲と比べるとなんとも勢いがない。コーラスなんて完全に脱力していて、「アワナホールドヤへェァァアァ~」という具合でここも実に日本歌謡的なのだけれど、しかしまぁ何と言っても最高なのは、その歌詞である。

「オー、プリィィズ。おまえーを、抱きしめーたーい。分ーかーる、この気持ち。」

この歌詞を書いたのは、漣健児(さざなみ・けんじ)氏である。

後年、「オブラディ・オブラダ」のデズモンドとモリーンを「太郎と花子」と訳して袋叩きに遭い、引退に追い込まれた漣氏ではあるが、彼は、「洋楽に日本語詞をつける」という手法で先鞭をつけた、日本音楽界における偉人である。「上を向いて歩こう」がビルボードを制したことは、1960年、その坂本九が「すてきなタイミング」(これも名曲である)を漣氏の訳詞でカバーして大ヒットを記録したことと、決して無関係ではないと思う。

話が逸れたが、「抱きしめたい」の歌詞である。

「分かる、この気持ち。」と訊かれても、申し訳ないが、全然分からない。歌ってる本人だって、バックのミュージシャンだって、ロックのロの字も分かってないのだから、伝わらなくて当たり前である。

とにかく、1964年において、僕らが持ち合わせている音楽といえば、ジャズっぽい大仰な歌謡曲であった。あまりにも新しいビートルズの音楽に接したとき、それを解釈する手法は、古き良きジャズで中和すること以外になかったのだ。

それを「逃げ」だと言って笑うのはたやすい。けれど、僕らは、何と言っても、1964年を生きていたのだ。僕らの矜持を失うわけにはいかない。時代は全然追いついていなくて、早すぎたかもしれないけれど、とにかく、日本人がやっと得た自信にしがみつくために、持てる全てを動員するしかなかったのだ。

それが、漣健児が、そして東京ビートルズがやろうとしたことである。名を残せなかったのは、単に、早すぎただけのことだ。

2020年。

本来であれば、第二回東京オリンピックが開催されていたはずの年だ。同じ東京オリンピックであるはずなのに、1964年とは、ずいぶん空気が違う気がする。

その良し悪しを語るつもりはないけれど、僕個人としては、東京ビートルズの、不器用だけれど一生懸命な姿が結構好きである。

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