見出し画像

神官と秀才、幕末の京に散る ~真木和泉、久坂玄瑞の絆~ 第3話 龍馬という男

第3話 和泉、勝海舟に会い坂本龍馬を知る


土佐脱藩志士・坂本龍馬中岡慎太郎の奔走により薩摩藩・西郷隆盛と長州藩・桂小五郎(木戸孝允)が京の小松帯刀邸で薩長同盟を結んだのは慶応2年(1866年)1月のことだ。真木和泉はそれより3年早く、長州の兵力が不足していることを見抜き薩摩と力を合わせて朝廷を補佐する「薩長合體(がったい)」の必要性を説いていた。しかし機が熟す前に文久3年「八・一八の政変」が起きる。

薩摩派の中川宮が動き孝明天皇の許しを得て、勅旨により長州派の三条実美ら急進的な公家を禁足とした。尊皇攘夷を唱え天皇に尽くしたはずの長州がまるで朝敵のような扱いを受けて、御所の門前で薩摩と一触即発の状態となった。武力行使は避けられたが公武合体派に敗れた三条実美ら尊王攘夷派の公卿は長州に下り、この政変で長州は薩摩に対する恨みをますます強める。

いわゆる「七卿(しちきょう)落ち」には和泉と久坂玄瑞も同行した。七卿は京から密かに逃れるため大仏・妙法院で装束を脱ぎ棄て庶民の姿に変装せねばならず、久坂は草鞋(わらじ)を差し出しながら「いかに国家のためとはいえ、これはあまりに浅ましきありさまかな」と涙を落として草鞋を濡らしたと言い伝えられる。

(東京日日新聞:明治24年10月8日より)



「あの時の悔しさを忘れることはないでしょう」


下関で和泉と酒を酌み交わしながら久坂は七卿の草鞋姿を思い出して唇を噛んだ。

和泉は三条実美に「八・一八の政変」は陰謀であり京に上って朝廷に訴えるべきだと説き、さらに桂小五郎や久坂玄瑞らと相談して西郷宛の書簡を出すなどしており薩長合體を諦めてはなかった。しかし久坂にしてみれば憎き薩摩と手を握るのは無理ではないかというのが本音である。その和泉が「幕臣の勝海舟に会ってきた」と言い出したから驚いた。

「噂の軍艦奉行たい。神戸海軍操練所まで行ってきた」と和泉。


「桂くんや高杉(晋作)くんからもいろいろ聞いちょったけん、攘夷か開国か真意を確かめようと思ってなぁ」
「幕臣のくせに必要とあれば幕府が潰れてもやむを得んというから、始めは噂通りの大風呂敷かと肩透かしを食らったようじゃった」
「しかし地球儀とかいう玉のような地図を見せながら話すことによくよく耳を傾ければ、これまで胸につかえちょった靄が晴れたよ。あの男は本物ばい。異国の事情を知ったうえで日本の将来を考えとる。ほんの束の間で生涯の同士を得たような気持ちになったよ」


「土佐の坂本龍馬が門人になったという人物ですね、私も噂は聞いちょります」と久坂。

坂本龍馬が脱藩する前に萩の久坂宅を訪ねてきたことがある。

「龍馬ちゅうのは不思議な男でした。話を聞きながら寝転がって居眠りしだすかと思えば、私が『長州藩も土佐藩もない、諸侯も公卿も頼りにならぬ、己のみが恃み。志あるものは脱藩して力を合わせる時ではないか』と話した途端に目を輝かして…」と初対面での印象を思い出した。

以降も龍馬とは何度か会っており寺田屋騒動の前にも京で遭遇している。

「勝さんも坂本龍馬のことは嬉しそうに話しよった。これまで会ったなかで西郷と龍馬ほどおもしろいやつはいないが、藩を取っ払って日本という器で将来を考えられるのは龍馬だけじゃろうとも言いよったなぁ」そう振り返りながら和泉は「久坂くん」と引き締まった感じで続けた。

「これまで尊皇攘夷を掲げて討幕を目指してきたが、勝さんの話を聞いて思ったよ。幕府を倒した後のことを考えねばと」

「王政復古ということですな」和泉の言葉に久坂が応じた。

「あぁ、けど天皇が政(まつりごと) を行うだけでは似たような諍いを繰り返すだけじゃろう。久坂くん。討幕した後は君や龍馬のような若者が新しい日本を作らねばならん」

まるで討幕までは任しておけと言いたげな和泉の覚悟を感じて久坂は静かにうなずいた。

元治元年(1864年)6月、長州藩は勢力を回復するため上京。真木和泉と久坂玄瑞は第一浪士隊の総管を務めた。


第1話 神官、風雲を前に美人妻と長崎・小浜温泉を旅する

第2話 真木和泉、薩摩で西郷隆盛に会えず上京 寺田屋騒動で収容される

第4話 禁門の変。そして選んだ道

第5話 久坂玄瑞の妻・文、真木和泉の妻・睦子はその後…



#創作大賞2022
#幕末
#真木和泉
#久坂玄瑞
#坂本龍馬
#勝海舟
#三条実美
#八・一八の政変
#七卿落ち
#薩長同盟

画像は『写真AC「タイトル:高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞の像(作者: Siokonbu)」』および『写真AC「勝海舟・坂本龍馬の師弟像(作者: WATERWATER)」』より




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?