年長者を無条件に敬う社会は終わっている
儒教においては「年長者を敬うべし」というのがその思想における大きな柱となって、これは現代日本人の考え方にも大きな影響を与えています。
年長者サイドにしてみたら「無条件に敬ってもらえる」のでとてもありがたい教えである一方で、若手サイドからは少なからず
「はあ? なんで年上ってだけで敬わなきゃなんねえの?」
という声が聞こえてきそうですが、この教えが成立した当時は年上であることが敬うべき理由になっていたのです。
ほとんどの人が農業に従事していた時代
儒教が成立したかつての中国……というより、20世紀の半ばを過ぎるまで、ほとんどの国ではほとんどの人が農業に従事していました。
農業は基本的に1年単位で物事を考えます。収穫は多く見積もっても1年に2回か3回が限度。
なので、たとえば
「田植えの時期にこういう植え方をしたら、稲があまり育たなかった」
「肥料の種類と量をこんな風に変えてみたら、収穫量が増えた」
といったノウハウを蓄積する機会……つまりPDCAサイクルを回して学習する機会は、1年に2、3回しかありませんでした。
そのため、今年から農業を始めた新人が、キャリア20年のベテランに追い付くには20年かけるしかないのですが、20年経つ頃にはベテランは40年選手になっていて、その差が縮まらない。ゆえに
年齢とはすなわち試行錯誤の回数であり
年長者とは経験豊富で能力の高い人と同義であり
経験豊富な人は尊敬の対象となる
という図式が成り立っていたわけです。
ところが現代日本では
農業に従事している人は、日本の場合5%を切っています。
つまり95%以上が工業、商業、サービス業などに従事しているわけですが、これらが農業と違うのは
「自然を相手にしているわけではないので、やり方次第ではPDCAサイクルを高速で回し、学習のスピードを上げることが可能である」
ということ。
ある人は、言われたことをやるだけ。
ある人は、週単位、日単位でトライ&エラーを繰り返している。
そうなれば当然、後者の方が多くのことを学び、成長していくことは想像に難くありません。
さらに産業構造の変化によって
農業は自然の法則を相手にするものなので、原則として「去年やってうまくいったことは、今年もうまくいく」という性質を持っています。
ゆえに、これまでの経験は基本的にこれからも通用した。
一方で工業、商業、サービス業などの産業においては、市場環境はめまぐるしく変化し、新しい技術が次々と生まれ、その結果「これまでどおり」では通用しなくなっています。
つまり、経験豊富であっても成功するとは限らず、場合によっては過去の成功体験が足枷になることもあり得ます。
こうした変化によって
年齢は必ずしも試行錯誤の回数に比例せず
年長者は必ずしも経験豊富ではなく
仮に経験豊富だったとしてもこの先も通用するとは限らず
ゆえに年長者が必ずしも尊敬すべき人物とはならなくなっているのです。
尊敬されうる年長者と、そうでない年長者の違い
ここまで書いた通り、儒教の世界観においては
年長者 = 経験豊富 = 有能
という大前提が共有されていたため、年長者を尊敬すべきであるという教えはすんなり受け入れられるものでした。
一方、日本を含む多くの先進国においては、その等式が通用しなくなっています。
私は個人的に、儒教の教えは大変参考になると思っているのですが
「年長者を敬うべし、年長者に従うべし」
というものだけは
「経験豊富で、その経験をもとに的確な判断を下せる年長者は敬い、その判断に従うべき」
と、解釈を変える必要があると思っています。
そしていずれ年長者になる身としては、若者に「年を取ってるんだから敬え」と強制しない、自然と「あの人はすごい」と思われるだけの力量を身に着ける、あたりを意識して歳を重ねていきたいと思います。
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