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苦労することを目的にしたがる人たちへ

「あの時はめっちゃ苦労した。しかしその苦労の中で身に着けたあれやこれやが、今はとても役に立っている」

みたいな話。

苦労して身に着けたノウハウが、ものすごく有意義なものであることを否定するつもりはありません。
しかしその苦労、本当に必要なものだったんですか? というのが今回の主旨です。

ある人の挑戦

「こんなイベントをやります」という文章を考えている人がいました。
彼は色んな人の意見を聞いて、自分なりに一生懸命考えて、できたものを上長に提出。
しかし上長からは「イベントの内容が分かりづらい」と却下され、再度検討して提出して、また却下されて修正して……ということを繰り返し、その過程で彼は

「自分の意見を整理することの難しさ」
「人に伝えることの大変さ」

を学び、最終的に自分なりのノウハウを確立し、ついに上長の承認を勝ち取ったのでした。

めでたしめでたし

とは私は全く思えなくて。

やみくもに試行錯誤するのではなく、最初からロジカルシンキングとかプレゼンテーションとか、ある程度確立されてるノウハウを学べばいいじゃないですか。

上長も駄目出しを繰り返すんじゃなくて「自分ならこうする」って教えてあげればいいじゃないですか。

苦労を重ねて身に着けることは大事です。
しかし、最初に「冴えたやり方」の一つを学んで、それを繰り返し使って身に着けた方が良くないですか?

車輪の再発明

「車輪の再発明」というフレーズがあります。

既に車輪という便利な道具が発明されているにも関わらず、それを無視して試行錯誤を繰り返し、苦労の末に車輪を自力で発明する。

もちろん自力で車輪にたどり着いたことは素晴らしいですよ。その過程で得たものは多いと思います。

が、しかし、車輪は既に発明されています。
だったら車輪を再発明するのではなく、その時間をもっと別の新しい発明を生むために費やすべきではないでしょうか。

苦労という名のサンクコスト

何らかの苦労をした人は、その苦労を無駄なものにしないために、そこから何かを学び取ろうとします。そして

「あの苦労があったからこそ、こういうことを学び、次の成功につながったのだ」

みたいなことを言います。つまり

「あんなに苦労したんだから、そこから何か学ばなきゃ損」

という、もったいない的な発想。

苦労したという過去が変えられない以上、それを有意義なものにするのは大切なことです。

しかしそれは

「苦労をすることが良いことだ」

という意味ではありません。

目的は苦労することではなく、「何か」を学び取ることです。
であればその手段として、苦労が最適なものとは限りません。

なのになぜか

苦労を推奨する人が多いんですよねー。

場合によっては、苦労すること自体を目的にしちゃってるケースすらある。

下手すりゃ

「みんなこういう苦労をしてきたのだから、お前も苦労しろ」

なんて言い出すことも。

目的はあくまで成長です。
その手段として苦労することが有意義なこともあれば、確立された最適解を学ぶことが有効なこともある。

苦労を乗り越えて身に着けた能力こそ最高であるという幻想を、疑ってかかることをお薦めしたいというお話でした。

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