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気持ちと行動の優先順位

何のイベントもないのに、小さなプレゼントをもらった。

もらっていいの?と思った。
なんだかすいませんという気持ちになった。

その次に相手を疑った。
ウラがあるとはさすがに思わなかったけど、何かあるのかな?と思った。

なんで「わー、ありがとう!」と無邪気にもらえないんだろうか。
もらって困るものだったら別だけど、わりにうれしいものであったのに。

自分を信じていないと、ひとのことも信じることができない。

何のイベントもないのに、何の見返りもしてあげられないのに、何かをもらっていい自分だと思っていない。
だから、そんな自分に取引なしに何かをくれるひとを疑ってしまう。

そのひとは旅先でそれを見つけ、手に取って、そこにわたしを思い出させるあることがあって、わたしにそれをあげようと決心し、行動(お金を払ってそれを買い、持って返ってきて、それをわたしにくれる)してくれた。
わたしが疑ったら、その一連の過程にひそむそのひとの思いはどこに行っちゃうんだ?

自分を信じないと、周りにさみしい思いをさせる。
逆の立場になるとよくわかる。自分だってその種のさみしい思いをときどきすることがある。

(物に限らず)どうしてそのまんま受け取らないんだろうと思うことがある。
こちらが差し出したものに対して、ものすごく恐縮したり、お返ししたり、謝ったり、挽回したり、はたまたひとのミスを見つけたりしてまで、なぜそんなにまでして五分五分であろうとするんだろうと思う。

だから、わたしはあえてお返しもしないし、必要以上に謝ったり恐縮したりしない。
でも、それをやるにはまだ踏ん張りが必要だ。
「どうもすいませ……」と口に出そうになるのをすんでのところでこらえて、「ありがとう!(にっこり)」と言う。踏ん張る。
これって気持ちと行動が素直にリンクしていないから、不自然といえば不自然なのかもしれない。

素直に自分の気持ちに従って行動すること、あるいは行動から気持ちを変えていくことのどちらを取るかは、どちらをすれば自分の機嫌がよくなるかによると思う。

「自分の機嫌がいい」は自己中心的とは限らず、周囲の環境も含まれる。
周囲の環境に自己犠牲的に気を遣うということではなく、自分を取り巻く雰囲気がよければ自分も心地よいということ。
だから、結局は自己中心的なのかもしれないけど。

「〜しなきゃ!」ではなく「〜したい!」。
「気を遣わなきゃ」「相手の気持を大事にしなきゃ」ではなく、「このひとに心地よくいてもらいたい」「相手の気持をそのまま受け取りたい(=相手の気持を大事にしたい)」。
「〜したい!」に従うことが、自分の機嫌がよくなることにつながるし、ついでに相手の機嫌もよくなる(はず)。

いいひとだと思われるため、気に入られるため、尊敬されるため、気遣いのできるひとだと思われるため、などという裏がスケスケのひとからの気持ちは、わたしは受け取らないし、相手をもっと居心地悪くするような行動をとってしまう。
こんなわたしは地獄に落ちるかもしれないけど、ここは自分の気持ちに従うことが勝ってしまうので、どうか閻魔様、大目に見てください。

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