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世の中には感情移入できるから感動する文章と、感情移入できなくても感動する文章とがある。

世の中には感情移入できるから感動する文章と、感情移入できなくても感動する文章とがある、とわたしは思っている。

感情移入できるから感動する文章は、言い換えれば感情移入できなければ感動しないということ。自分にもそこに書かれていることと似たような経験があれば涙がどばどば出るけれど、そうでなければただの文字。

昔、教会で行われた友人(女子)の結婚式に参列したとき、一緒にいた友達(女子)が隣でくすんくすんと泣いていたことがあった。新婦のきれいな姿に感動して泣いているのかと思いきや、後でよくよく聞いてみたら違った。
新婦が結婚したいのになかなか彼氏(新郎)がプロポーズしてくれなくてつらかったとき、自分も同じような状況だったことを思い出して、それで感極まって、ということだった。
そうした同じような経験に基づく感情移入によって、ひとは感動 ―感動とは多く涙することだが― するらしい。

先だって、ある小説を読んだ。本や映画でめったに泣かないというひとが、「この本ではさすがのあたしも泣いたわ〜」と言っていたのを聞いて、読んでみようと思ったのだ。
わたしも本や映画ではほとんど泣かない。というか泣けない。

でも、その小説でも泣けなかった。
「そんなに泣きたいのか、あんた?」と問われれば、いや、泣きたいというか、自分の感情を試したいというか。
映画館であちこちから鼻をすする音が聞こえてくるのに、わたしだけがしれっと座っているって、なんかどこかおかしいんじゃなかろうかと思うのだ。

でも、なにをどうやっても泣けない。
その泣けるといわれる小説でも、描写の小賢しさが鼻についてしまって、そっちに気を取られて、まったくもって泣けなかった。
泣けばいいってもんでもないし、泣けなくても素晴らしい文章というものはものすごくたくさんあるのだけども、その小説はよかったのか悪かったのかと聞かれれば、やっぱりわたしにとっては全然よくなかった。
感情移入できれば、もしかしたら泣けたかもしれない。でも、わたしにはこの本に出てくるような経験もないし、リアルに想像もできない。だから、つまらん本(プンスカ)で終わってしまった。ごめんなさい。

そんなわたしが、最近、電車の中で偶然読んだ短い文章に涙ぐんでしまった。これ、家で読んでいたらギャン泣きしてたかも。

燃え殻さん、家族への「ありがとう」の伝え方を教えてください

人に迷惑をかけてはいけないと信じて生きてきて、かつ母と断絶中のわたしにとって、この文章は決して感情移入できる内容ではない。

醤油ラーメンをすすりながら、我ながら情けなくなってどんぶりに向かって、「ごめんなさい」と母に謝罪しました。母は何も言わず、ずっとラーメンをすする音だけが聞こえます。さすがにボクは気になって母の方を覗くと、「家族は順番に迷惑をかけていいのよ」と、これまたラーメンのどんぶりに向かったまま言いました。店内にはTBSラジオがかかっていたはずです。夏の暑い日で、蝉も鳴いていたような気がします。
(出典:文春オンライン)

このリアルな描写によって、想像力の乏しいわたしでも明確にその時の情景がイメージできる。小賢しさなど微塵もないのに、文字と文字の間から書き手の思いが滲み出てくる。

「行間を読め」っていうやつがいたら、「滲み出てくるような文章を書いてこい!」って言い返しても、もしかしたらいいのかな。

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