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やめちまえ、という決断

「新しいことをやり始めても、途中で邪魔が入ったらすっぱりやめちゃうの」

先だって知り合った女性がこんなことを言っていました。
邪魔が入るということは、それはやらないほうがいいということと彼女は解釈するんだそうです。

わたしたちは何かを始めるときの決断を重視しがちだけど、何かをやめる、あるいは終わらせるときだって決断がなければできません。

「辞めさせていただきます」と会社を辞める、「実家に帰らせていただきます」と夫婦関係を終わらせるといった、人生においてわりに重要な「やめる、終わらせること」ことから、今日はおやつを食べるのはやめとこうとか、ビールはこの1杯で最後にするべなどという、ちっさい「やめる、終わらせること」にも決断は必要です。

どんなことがあってもやり抜くんだ! と『ロッキー』のようにやり続けるのもいいと思うし、流れが阻害されるようだったら「ちょっと違うのかな」と判断して、そこでやめるのもいいと思います。

ただ、どちらの決断にしても、冒頭の女性が言ったような、判断の基準というか目印というか、そんなものを持っているといいなと思いました。そうじゃないと悩む時間がもったいないじゃないですか。

わたしは毎月1日に、その月の1か月の目標を決めます。内容はたいしたことじゃないんです。目標というより「することリスト」みたいな感じです。大学のレポートを2科目書くとか、ブログを10本書くといった(毎月できていないから毎月書いている^^;)回数を定めて行動するものから、自分のこれからの働き方を決めるといった、ふわっとしたものまであります(これも何か月も書いていた)。

今日は10月1日です。今月のすることリストを書く前に手帳をぺらぺらとめくっていたら、6月の欄には「ネガティブな感情に振り回されない」なんてことが書かれていました。
これは「やめること」ですね。ややこねくり回して言えば、「やめることをする」ってことです。
そのときはあまり意識していなかったんですが、ここにもそれなりに決断があったんだと思います。
イライラしてもいいことはない。ネガティブな感情に振り回されることは、自分にとっていいことは何もないから、それを変えたくて、感情に振り回されることを「やめる」ことを「決断」したのです。

何かをし始めるときの決断も、やめるときの決断も、今の状況を変えるためにするものなんだという、当たり前のことを改めて思いました。今のままでいいなら決断は必要ないですもんね。
毎朝6時にぱっちりと起きられるひとが、毎晩寝る前に「明日は6時に起きる!」という決断をすることはありません。
でも、明日から出勤前にジョギングをしようという決断をしたならば、そのために「明日は5時に起きる」といった決断をするんでしょう。
なんか決断が入れ子になってますね。人間の生活って、決断の連続なんですね。

じゃあ、ジョギングのために5時に起きていたけれど、何らかの理由でやっぱりそれをやめるときの決断は、どうやってするんでしょう。
「やーめた」でやめることもあれば、自分を正当化できる理由を探してきて、しぶしぶやめたことにすることもありそうです。
かたや、やめることに罪悪感を感じて、なんだかよくわからないけど毎朝5時に起きて、頭の中が「?」マークで満載の中ジョギングしている、なんてこともあるやもしれません。

意味が見出だせないのに続けちゃうっていうのは、やめる決断ができていないと同時に、「続けるんだ」という決断もしていないんですね。ガス欠かつブレーキの壊れた車が、止まることも加速することもできずに道をただ転がっていく感じ。

一般的に継続するってことはいいことだとされています。よっぽど意味のないことでない限り、続けていて怒られることはあまりありません。継続は美徳みたいな教育も受けてきましたしね。とくに昭和の世代は。

仕事なんかでも、過去からの引き継ぎで今では意味のなくなった業務を延々と続けていることがあります。でも、それで怒られることはあんまりありません。
むしろ「意味がないからやめません?」なんて言うと、お局様みたいなひとに怒られます。みんな自分の仕事は重要だと思いたいし、それを否定されると自分の存在意義をも否定されたように思うのかもしれません。
で、「やめません?」って言ったこっちが「どうもすいません」って、なんだか知らないけど謝っちゃって、「悪いこと言っちゃったかなー」なんて罪悪感をもたせられることになるのです(同時に「ばーか」とも思うんですけどね)。

いずれにしても、やめることって、時として自分にも他人にも変な罪の意識を感じさせちゃうんですね。
そんなときに、罪悪感なしにやめられる基準を持っているといいんでしょう。

わたしが一番いいと思うのは、「希望が持てないならやめる」です。

このルーチン業務を続けても、会社やそこで働くひと、そして自分に希望を持たせられないなら、やめる。

ジョギングがつらくても、ホノルルマラソン完走した自分が想像できるなら、張り切っておやりください。
でも、ダイエットのためにやり始めたジョギングで、痩せもしないのに膝は痛くなる、てなことになるんだったら、スポーツクラブにでも行って専用のトレーナーをつけたほうがいい。

希望って、将来的な見通しが明るいということだけじゃなくて、自分がそれをやり続けた先の姿が、希望を伴った形で見えるかどうかってことじゃないでしょうか。
希望がなければ絶望しかないし、それは結構つらいことですよ。
やめたいなあと思うようなネガティブなできごとが起こったとしても、その中に希望が見出だせるとしたら、やめないでいられると思います。トンネルを抜けたらぜったいお花畑だと思えるんなら、むしろやり続けたくなるでしょう。

だから、希望が持てなくなったら、罪の意識なんか感じずにとっととやめちゃえばいいんです。
たいていのことは、死ぬほどのことじゃないんだから。

そうです。やり始めるときの決断の基準は「これをやっても死にゃあしない」です。

と言いながら、やろっかなー、やめよっかなーと、部屋の隅っこで指を絡めてぐずぐずと悩んでいるのはこのわたくしでございました。どんまい、自分。

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