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自分が正しい!

なんでも自分のせいにするよりは、ひとのせいにしたほうがいいのかもしれない。究極的には。

あらゆるものごとはケースバイケースで、一概にイエスかノーかなんて言えない、というごく当たり前のことを強く意識しだしたのは、ほんとうに遅すぎるのだけど、ここ数年のことだ。

心理テストとか、就職試験で受けるなんとかっていうテストで、イエスかノーかを迫られることがあるけれど、ちょっと前のわたしは本気でそれに答えようとしていた。

たとえば、自分のことを頑固だと思う、イエスかノーか。
そんな質問に真剣に悩んで、どちらかに○をしてた。本音で答えたら、ほとんどが「どちらでもない」になる。頑固を自ら貫きたいとき、貫かなければならないときもあれば、どうでもいいことや、相手の意見に理があると思えば譲るときだってあるから。

法が判断してくれること以外は、なにが正しいかなんてだれにも決められない。だから倫理学という学問は何千年もあーだーこーだ言っているのだし。

わたしがたんに未熟なだけなのかもしれないけど、自分自身で判断して決断するって、ほんとうに難しいし、勇気がいるときも多い。
だけど、なにをやったって文句言われるときは言われる。逆に「え、こんなことで?」 ってことで周りからのポジティブな反応を得ることもある。

落ち着いていると言われたかと思えば、陰気だと言われたり。
おデブさんは意志が弱いとみなす国もあれば、それが社会的ステータスとなる国もある。
同じことをし続けることと、新しいことに挑戦し続けることのどっちがいいの?
じっと耐えること、とっととそこを去ることのどっちがいいってだれが決められるの?
……

10代の頃、自分で考えて、判断して、選択して生きていく強さが少しでもあったなら、いや、そんな高度なことでなくても、自分が正しくて周りが悪いと思い込んでいれば、悩まなくていいことに悩まず、我慢しなくていいことに我慢せず、周りに合わせることもしなくてよかったのかもしれない。

明らかに周りが間違っているのであれば、そのことをひとにも言いやすい。自分が悪いと思っていれば、悩んでいることもひとには打ち明けられず、ひとりで抱えてつらくなってしまう。

ときにはオレさまになって、バカヤローと(心の中で)叫んでみよう。わたしもそうする。

#8月31日の夜に #エッセイ #コラム

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