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傷つきゃしないが、戸惑っちまうのよ

最近、がんになったひとにどう声をかけるかという話題が目にとまる。がんになった写真家さんやスポーツ選手の影響なんだと思う。

わたしも10年前にがんになったけど、幸いなことにひとから言われることで、傷ついたり悲しくなったり怒ったりという経験はなかった。怪しげな民間療法や宗教を勧められることもなかったし。
有名人だったり人脈の広いひとは、そういうことが多いみたいで大変だなと思う。わたしは有名人でもないどころか、友達も少ないから、ある意味助かった。

いわゆるスピリチュアルな内容の本を病院にもってきたひとは何人かいた。
とりわけ、姉から江原啓之さんの本をもらったときはおったまげた。あんなつんつんして、他人の批判ばっかりしているひとがスピ系だったんだなんて。なにかにすがりたいようなつらいことがあるのかもね、と思うようにした。

そんな感じで、紅茶キノコを勧められたり、壺を買わされたりすることもなく、スピ系の本を何冊かもらっただけですんだ平和な闘病生活だった。

がんになったことで、友達が少なくなったというひともいるらしい。治療の情報収集のためにがん患者・元がん患者さんたちのブログを読んでいて、そういう経験をしているひとが複数いることがわかった。なんでがんになると友達が離れていくのか意味がわからないのだけど。
わたしは友達が増えもしなけりゃ減りもしなかった。だけど、がんになったことで妙な尊敬の念を抱かれて、向こうから連絡してくる回数が増えたことはある。これも意味がよくわからない。
べつにわたしは偉いことはなにもしてないし、あえてだれが偉いことをしているかといえば、お世話になった医療従事者のかたがただろう。どうも皆様、その節はお世話になりました。

ということで、何人かのひとがわざわざ見舞いに来てくれて、おおむねフツーに接してくれて、「こんなこと言わないでくれ」「そっとしておいてくれ」などと思ってイラつくこともなかったのだった。

過剰に心配されるのも困るけど、逆にこんなこともあった。
当時勤めていた会社のわりにお偉いさんたちは、わたしがはやく仕事をしたいだろうと妙に気を使い(やるべきことをやっていただけなのだけど、仕事大好き人間だと思われていた)、退院後一週間もたたないうちに「今後のための打合せに」呼ばれた。
だけど、それはちょっと肉体的につらかった。白血球もまだ低かったし、半年近く病院でゴロゴロしていたせいで、駅まで歩くのもひーひー言うくらいだった。こういうシチュエーションでのこのこと出かけてしまうのがわたしの弱さでもある。
でも、彼らに配慮がないという怒りは不思議とわかず、自分が経験しないと、せめて家族など身近なひとが経験しないとわかんないものなんだなーと思っただけだった。(ただし、がんと一言でいっても、どこにできたかによっても、進行度によっても、がんの質によってもぜんぜん違うだろうから、がんを経験したからわかるってものでもないってことは、覚えておこうと思う)

そんなこんなで、肉体に不具合は多少残るものの、10年たってもわたしはぴんぴん生きているわけだ。
それでも、いまだに心配するひとは心配する。
会うたびに「体はどう?」とか「元気そうでよかった」と言う友人がいる。
食事をしようかというときでも、お酒は飲めるのか、夜遅くなっても大丈夫なのかなどということを根掘り葉掘り訊いてくるわりには、待ち合わせにいつも遅れてきたり、「銀座にはめったに来ないからわかんなーい」とお店選びを丸投げしてくる。不思議なのだ。

こういうひとって、わたしががんになってからコンタクトを取ってくる回数を増やしてきたがひとだ。
そして、病気になる以前はわたしのことをほんのわずか下に見ていた(ように感じた)のが、明らかに見る目が変わっている。
そういうのって戸惑う。その戸惑いが、10年たっても続いている。
心ないことば、あるいは親切のつもりでかけることばに傷ついたことはない。だけど、戸惑うことはある。
だから、わたしは10年の間ほとんどのひとに自分が元がん患者であることを言わなかったんだと思う。戸惑うのが面倒くさいから。

だけど、最近は話の流れで元がん患者だったことを言うことが多くなった。
これだけがんという病が多ければ、過度に反応するひとも少ないだろうし、あるいはその「特殊」の度合いが薄まっていると思う。「あのひとインフルエンザになったのよ」「あらー、お気の毒」ぐらいには。あ、もうちょっと濃いかも。

ちょっと今までの文脈とは外れるかもしれないけど、最後にちょっと書いておきたい。

わたしはがんという病にかかったことに関して、すべて自分で選び自分で責任をとった。
両親は本をたくさん買って情報収集していたようだし、入院前の診察には、どんなに断っても一緒に病院についてきたりした。家族としてはそうしたいんだろうし、そうしなければいられなかったんだろう。
家族には多大な心配と労力をかけたと思っている。天涯孤独の身で病気になったとしたら、現実的な部分でさぞかし大変だっただろう。
それなのに、自分ひとりで闘病したようなことを言うのは傲慢だと思われるかもしれない。

わたしは医師や書籍やがん関連の団体や患者さんたちのブログなどから情報を収集し、医師から提示された治療法を自分で選択した。
だから、治療による合併症が残っても、医師を恨んだりはぜんぜんしていない。騙されたわけでもないし、彼らにとってはそれが患者のために最善だったのだと思うし、そしてわたしが自分で下した決断なのだから。

患者に言ってはならない、あるいは実際に患者が言わないでほしいと思っていることばを、もしかしたらわたしもかけられたのかもしれない。
そうだったとしても、必要のないことばをわたしは選択しないから「右から左」で忘却の彼方に行ってしまったのだと思う。そんなことで怒っている暇はなかったのだから。

無神経なことを言うひとがもちろんよろしくないのだけど、自分がなにを選ぶのかということに責任をもっていれば、あんまり他人のことばに振り回されないんじゃないのかなと思う。
振り回されなくてもことばが自動的に(電話やメールやSNSなどで)入ってきちゃうかもしれないけど、シャットアウトする方法はいくらでもあるから。
あ、エラソーなこと言ってるけど、戸惑ってるわたしもまだまだ甘いな。

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