見出し画像

そんな夢だけど

先だって、あるひとから「夢って何でしたか?」と訊かれた。なんで過去形なんだよと思ったけど、まあ意図は汲み取れるくらいには大人なので、なんだったけなと素直に思い出してみた。

「夢」と言われてイメージするもの、それは目の上のたんこぶ的な位置に現れ、ちょっとだけまぶしい程度にキラキラしている。こういうのが健全で一般的な夢なんじゃないだろうか。でも今どきのお子たちは「将来の夢は会社員」とか言うらしいから、そうでもないのかもしれないけど(そもそも、夢=就きたい職業とは限らない)。

幼稚園のころは科学者(お茶の水博士的な)、小学生のころは漫画家になりたいと思っていたけど、そのあとはそういう夢をもった記憶がない。

冒頭のそのひとの質問は、お茶の水博士になりたかったんですという答えを求めているのではなく、そこそこ現実的、かつそこそこチャレンジングなものという意味での夢は何だったのかと訊いているのだろう。

お茶の水博士にも漫画家にもなれそうにないと理解したころから、こういう健全な「夢」が、どうやって生きていくかという計画みたいなものに変わっていく。
計画といっても、どういう仕事をするのか、一生働くのか、数年働いて結婚退職するのか(わたしたちのころは、女性の場合、まだそういう生き方がむしろステータスだった)ぐらいの漠然としたものだけど。

だけど社会に出ようとする時点でつまずいたわたしは、そんなことを考える前に、とにかく一人前の社会人にはやくなりたいと思っていた。それがわたしの「夢」だった。

社会という定義はいろいろあるだろうけど、学生という立場が終わって、金銭を稼ぐようになれば社会に出たということになり、わたしは社会人になったと言っていいと思う。
だけど、いまだに就活という習慣が猛威をふるっているように、とくに「新社会人」という言葉は、新卒で正規従業員として雇用されたひとを指しているように思う。
わたしは学生生活は終えても、それには当てはまらなかった。だからはやくその仲間入りをしたかった。遅れを取り戻したかった。それがわたしにとって「社会人」になることだった。

数年遅れでわたしは自分のことを「社会人」と認められるような状況になった。「夢」がかなったのだ。
最初の会社で2年でリストラされてトイレで泣いたこともあったけど、その後転職を繰り返した。一生懸命働いたからか、使いやすかったのだろう。どこに行ってもそれなりに評価してもらった。

仕事が充実していなければ、プライベートも充実できないタイプだったので、ほんとうによく働いた。働きすぎて病気になっちゃったこともあったけど、仕事がないよりはるかにましだった。こういう考え自体が病気だと思うけど。

いろんな生き方、いろんな働き方がある今、わたしのこんな考えは時代錯誤もいいところかもしれない。
わたしが抱いていた「夢」の裏には、居場所がほしいとか、やっぱり世間の常識に合わせておきいなどという考えが存在していたんだろう。ますます「夢」ということばにはそぐわない夢に思えてくる。

わたしは行動力がないし、なんでもちょっとやってはすぐあきらめてしまう。だけど、この夢というにはあまりに現実的な夢が、ほんとうの夢だったからこそ、ずっとそのかなった夢を手放さずにいたんだと思う。

10年くらい前に「自分が正しいと思ったことを貫きなさいよ」と、あるひとから言われた。
わたしの生き方なんてだれかから見れば間違っているかもしれない。だけど、自分が正しいと思っていることは自分自身を動かす原動力となる。

あなたをあきらめさせなかったその「夢」は、あなたにとって正しい夢なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?