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闇を照らしたかった彼と、闇で生きたかった彼女

観た映画:

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件

「あなたも私を変える気? でも、この社会と同じ。何も変わらないのよ」

変わることはよいことでもあり悪いことでもあるようだ。
あるときには変わることが善とされ、あるときには変わらないことが善とされる。どっちやねんと思う。

変わりたい人間もいれば、変わりたくない人間もいる。
自分自身が変わる。他人を変える。社会を変える。あるいは自分以外が変わるのを待つ。

いずれにしても、どうしようもない状況になったとき、ひとは自分が変わることをやめるし、自分以外が変わることを待つことも望むこともやめるのだと思う。

変わりたくてもどう変わればいいのかわからなかった。
目標物はどこにあるのか。それは自分で置かなければいけないのか。そうだとしたら、どこに何を置けばいいのか。頭が悪くてわからなかった。
誰か置いてくれればいいのにと思った。できれば、「こっちだよ」と道案内もしてほしかった。
でも、そんなひとはいなかった。もしかしたら、いたのかもしれないけれど気づく余裕もなかった。

目当てが何もない、誘導してくれるひともいないとなれば、そこにとどまるほうが楽だと思った。
懐中電灯で闇を照らしながら前に進むこともできたはずだけれど、手もとには懐中電灯はなかった。手に入れようともしなかった。
生きることをやめるほどのつらさではなかったからか、妙なエネルギーはあった。気を紛らわすために、男をとっかえひっかえした。
さえないわたしでもそんなことができた。結局男は、顔より体なんだなとそのとき思った。つきあった男たちは、後腐れのないように、妻子持ちの男ばかりだった。

小明(シャオミン)は、変わらないことと、変わることを期待しないことを選んだ。
そして、中学生にして男をとっかえひっかえして、したたかに生きている。少なくとも周りにはそう見えた。

小明とわたしとでは置かれた状況がまったく違うけれども、彼女と昔の自分が重なる。
変わりたかったのかもしれない。でも、垂れ込んだ諦念が、ひとから変えられることを拒んだ。

子どものときの夏休みは、房総半島の祖父母宅に長いこと滞在するのが習慣だった。
夜、近所の盆踊りに行くというと、祖母に懐中電灯を持たされた。東京と違って外灯も家の灯りも少ないし、ガードレールもない田んぼや畑の中を通る道は、落ちるポイントがたくさんあったからだ。

家族みんなの一番後ろを歩いて、懐中電灯を照らすのが好きだった。先を照らしすぎても彼らが目の前の石につまずくかもしれない。足元ばかり照らしても、一歩先が見えない。ちょうどいい頃合いの距離を照らすよう工夫するのが好きだった。
懐中電灯を照らしているわたしは、彼らのあとをついていけば転ぶことも落ちることもない。
わくわくした。自分が家族を支えている英雄のように思えた。普段はなんとも思わない家族に対して、一体感のようなものも覚えた。

小四(シャオスァ)は、映画スタジオでくすねてきた懐中電灯で闇を照らした。
大人たちにとっても暗すぎるその闇に、14歳の彼も否応なしに入っていく。懐中電灯が手放せない。

「あなたも私を変える気?」

小四は、小明を変えたかったのだろうか。「こっちだよ」と導いてあげたかったのだろうか。
そうではなかったとわたしは思う。
懐中電灯を照らしながら真っ暗な田舎の夜道を歩くように、彼女と一緒に闇を照らしながら歩いていきたかったんじゃないだろうか。
先行きの見えない不穏な社会の中であっても、懐中電灯を手に、小明と一緒に進もうとしていたんじゃないだろうか。
たとえ目標物を置いていなかったとしても、ときどき田んぼに落ちそうになりながらも、懐中電灯で闇を照らしながら歩いていけば、結果的に何かが変わるかもしれない。なんて思っていなかっただろうか。

でも、小四はいつも持っていた懐中電灯を置いていってしまう。そして、小明を永遠に闇に葬ることになる。
小明は闇に生きたかったのだから、あるいはちょうどよかったのかもしれない。本人に聞いてみないとわからないけれど。


過去に絶望し、未来に希望がもてなかったわたしには、皮肉なことに大病がきっかけとなって、闇に生きてはいけないと「社会的に」思わされることになった。

光に満ちあれているわけでもないけれど、真っ暗闇でもないこの中途半端感が、わたしにはちょうどいいのかもしれない。




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