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特別なことにできない

今、世間はお盆まっただなかだけど、実家はお盆を7月にやっていたので、子供のころのわたしにとってお盆とは、海にクラゲが出始め、そろそろ本気で宿題をなんとかしないといけない時期だった。大人になってからは多くのひと、または会社が仕事を休み、通勤電車が比較的空いていることくらいなものか。

実家ではお盆に火を焚いたり、茄子の馬を作ることはあったけど、墓参りに行くことはなかった。お墓参りに行くのはもっぱら春と夏のお彼岸の行事で、お盆のときにわが家が盛り上がるのは、だれかの新盆があるときくらいだった。

わたしは物心ついたころから墓参りがなぜか好きで、今でもひとりで行く。春分の日と秋分の日前後は父方と母方の両方の墓に行くので、しかも両家の墓が東京の西の端っこと東の端っこでかなり遠いので、忙しい。
たまにはお盆の墓参りにでも行こうかと思ったけど、あまりの暑さと、忙しさと、そして迎えに行ったらまた墓まで送ってあげないといけないと思うのでやめた。

10年くらい前のお盆直前に父は亡くなったのだけど、今年もまた父の命日を忘れてしまった。覚えていたからといってなにするわけでもないのだけど、命日に故人を思い出してしみじみすることができない。お父さん、どうもすいません。

父の命日だけでなく、飼っている猫の誕生日も忘れてしまう。
うちの猫は子猫のころに保護主さんに拾われたので、いつ生まれたのか正確な日はわからない。なので、覚えやすいように4月1日にしている。にもかかわらず、一度も誕生日を祝ってあげたことがない。ごめんよ、猫。

そういう記念日的なものをいっさい覚えていないのは、数字に弱いからなのと、記念日をイベント的なものにする習慣が自分にないからなんだと思う。
今日人間ドックに行ったのだけど、ある疾病について罹患した時期を質問されても、9年前かな、10年前かな、38歳のときだったかな、あれれ? みたいになって、看護師さんに眉をひそめられた。
けっこう重篤な病気だったのに、たとえばそれを毎年「今年も生きられてありがとう」みたいなイベントにしないから覚えられない。

そういうことで損していることが多いかもしれない。
自分のキャリアもイベント化すれば、もうちょっとできる人間に見せられるのかもしれないけど、自分ができることはすべて当たり前だと思ってしまって、うすぼんやりとしたポートフォリオにしかならない。

まあ、でも、こんなうすぼんやりした人間がいてもいいんじゃないかと思えるようになったことは悪くないと思っている。

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