その気持ちは、求められて生じるんでなく、湧き上がるもの

少し前、ある企業さんの記念行事におよばれしてきました。
新製品の発表があり、著名な方の司会があったりと、なかなか派手な舞台だったのです。

 抜群の演出。
 贅沢な人選。
 トップ自らの言葉で語る。

そのへんの経営書に書いてあることに照らし合わせれば、お手本のような経営をしてらっしゃる。まるでTVでも見てるかのような演出に、素直にすばらしいなぁ、と拝見していました。

なのに、なんともいえない違和感も同時に感じてしまって。
その原因を考えて気づいた一つは、感動を求める圧力、です。

誰だって感動したいし、共感してほしい。だからそのコンセプトが大切なことには間違いないわけですし、感動を切り口にしたサービスこそがこれからは必要だ、なんて言う方も多いですね。

でも、共感や感動は、押しつけられるとこまるものです。


「共感してるよ」と言われても、共感できてるかどうかは受け手であるこちら側の判断なわけです。
「感動するよね」とこられても、感動するかどうかは私の心次第なんです。


新事業自体はすばらしいものだったし、家族を巻き込んでの共同体としていくのは大変すばらしいのですが、それを「だからあなたも感動するでしょ」とこられてる圧迫感を端々に感じたのですね。


そんな様子にかさねて思い出したのは、学校の文化祭。

学校全体が一体感のあるすばらしい文化祭もあるでしょうけど、多くの文化祭では盛り上がってる学生と冷めてる学生で分裂してしまってる、なんてことっはないでしょうか。
中でもよくあるのは、実行委員や生徒会あたりが他を寄せ付けないムードで盛り上がり、お固めの先生のいいなりになりながら、生徒の大半が面白くもないと思ってる企画が発生し、全校生徒がしゅくしゅくと進めているような感じ。

そんな文化祭の様子になんとなく重なるものを感じてしまったわけです。

今回の行事はそれとは比べものにならないです。
きれいな演出でした。進行もすばらしい。

でも、心底からの一体感を感じられなかったのは少しさびしいものだな、と思ったのです。


もちろん、「ならば自分はどうなんや」と反省させられもするわけです。
自分が文化祭実行委員的立場になったら、やはりまず自分が盛り上がることを考えちゃうものだと思いますし、押しつけるつもりがなくても、空騒ぎしてるかもしれませんよね。

自分がそんな風になってないかどうかは、常に自分を客観的に見なきゃならない。まさに鳥の目の瞑想が必要です。客観視の重要性も、他者への共感も、その重要性を改めて再認識させられました。

もちろん、組織の内部で分裂があったとしても、学校だろうが企業だろうが、粛々と日々の教育や事業は進んでいくのでしょう。ただ、それではいつか限界が来るようにも思うのですね。

100人いて100人の思いが全て一致するなんてことはないですが(それはそれでこわい)、縁あって寄り合った人同士くらい、自然にそれぞれの心でもって感動しあいたいな。

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