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恋人に肩の毛をあげた話

泣いたのは3度だけ

物心がついてから、人前で涙を流したことは3度しかない。

元来感情の起伏が少ない質(たち)だったし、何より他人の前で感情を見せることは恥ずかしいという感覚がどこかにあったのだと思う。今もそうだ。

3回の涙は、どれもネガティブな出来事の中で流れたものだったので、あまり他人に話したことはない。例えば最初の涙は人の死に関わるものだった。3度目の涙は、別れに関するものだった。 

それは僕が21歳のころ、場所は羽田空港での出来事だったと思う。


トマト嫌いの彼女

当時の僕には、1年ほど付き合っている女性がいた。アジア人の女の子で、出会いはアルバイト先の書店だった。彼女はワーキングホリデーを利用して日本に来ており、確か僕の2ヶ月遅れの後輩として働き始めたのだと記憶している。

大きな職場だったし、シフトの時間もずれていたので、僕たちが仲良くなることはなかなかなかった。きっかけは彼女が入ってから1ヶ月ほどのこと。春の読書キャンペーンを控えたある土曜日の夜に、僕らは奥の事務所で二人きりになる機会を得た。

その日はアルバイトの面々がシフトの枠を越えて駆り出されており、店頭に張り紙するもの、店内にポップを取り付けるものなどなど、10数人のアルバイトがそれぞれが何らかの役割を任せられていたのだ。僕たち2人は、みんなが頭に巻くハチマキ作りを担当することになった。ハチマキ?

テーブルの上には春らしいピンクの布地が山になっており、僕らはそれらを裁断し、縫い合わせ、何十本ものハチマキを作らなければならなかった。

ハサミと針と糸を手に、最初のうち僕は、ひたすら無言で作業していたと記憶している。話したことのない相手との会話が苦手だったということもあるけれど、なにしろ布地の量が多く、集中しないと作業を終わらせることが物理的に難しかったのだ。

1時間くらい時間が経過したころだったろうか。際限なく続く単純作業に、僕が作業の意味を見失いそうになっていると、隣から「クックッ」と、ナスの表面をこするような音が聞こえてきた。顔をあげると、針も糸もテーブルに置き、彼女がこちらを見て笑っていた。

「どうしたの」
「植松さんのハチマキ、すごく下手なんだもん」

机を見渡してみると、たしかに僕と彼女のでは、出来上がったハチマキの山に一見して大きな違いがあった。丁寧にたたまれて、シワひとつ無い彼女のハチマキに比べ、僕のはシワシワで、糸が途中で解れ、投げやりに机の角に固められていた。

「いつも真面目にしているから、不器用なのはかわいいですね」

それから僕たちは少しずつ言葉を交わしはじめ、互いのことを少しずつ話すようになっていた。

ほんの数十分ほどの時間だったけれど、その間に僕はいくつかのことを学んだ。彼女が大きな犬が好きで、トマトが嫌いなこと。嵐では相葉くんが好きで、実家の中華料理屋にも言ったことがあること。ワーキングホリデーに来る前にも、一度日本に留学した経験があること。その時に日本人の男性と付き合い、彼に会うために再度日本を訪れたのだということ。そして、日本に来てから、彼にはすでに新しい恋人がいると知ったこと。

何もないけど穏やかな毎日

そうして話し始めるようになってから、およそ1ヶ月ほどで僕たちは付き合うことになった。

彼女の家は、留学生やワーキングホリデーの外国人がたくさん暮らす、そのあたりではよく知られたシェアハウスだった。

それからは、授業やアルバイトを終えたあと、彼女の家に立ち寄ってから帰宅するのが、僕の日課になっていった。彼女の家は僕の家の反対方向ではあったけれど、彼女と歩く道のりは、楽しい幸せな時間だった。

彼女は感情のはっきりと現れるタイプで、最初のうち僕たちはよく喧嘩をした。面食らうことも多かったけれど、鈍感な僕にとってはそのほうがわかりやすかったし、自分の思いをストレートに表現する彼女に、僕は羨ましさと尊敬の思いの両方を感じた。

どちらもお金のない学生だったから、デートや普段の過ごし方は、本当につましいものだった。二人の家の中間地点にあった井の頭公園をよく散歩して、たまにはボートに乗った。井の頭公園には当時、いつもハープを弾いているおじいさんがいて、普段はおじいさんの近くに座って、ハープの音色を聞きながら池やそこにいる水鳥を眺めていた。

あるいは入場料400円の動物園で日がな一日象やサル山を眺め、帰り道ではコンビニで買った肉まんを二人で分けて食べた。

「幸せ」とも感じないような、自然で穏やかな時間だった。

大丈夫、なんとかなるよ

たまには遠出することもあった。よく覚えているのは、江ノ島に向かった時のことだ。彼女と付き合ってから、数ヶ月が経ったころだと思う。

大学が神奈川県のほうにあったため、僕は何度か江ノ島に行ったことがあった。勝手知ったる土地でスイスイと進む僕のあとで、彼女の足取りがどこか重たい。

前の日まで「江ノ電に乗れる」「アニメ『SLUM DUNK』の高校を見れる」と嬉しそうに話していたのにどうしたんだろうか。変に思いつつも、特に彼女に尋ねることもなく、僕たちはそのまま進んでいった。

あの頃から僕は鈍感で、想像力に欠け、自分のことばかりを考えていた。いまもそう変わらない。

江ノ島では生しらす丼を食べたり、神社でお守りを買ったり、公園で猫をなでたりと、定番のコースを順当にまわっていった。そのうちに彼女の顔も落ち着いてきて、先程までの不安を僕はすっかり忘れてしまっていた。

様子が変わったのは、夕方になって、もう帰ろうという時のことだった。

最後に僕達が訪れたのは、「恋人の丘」という、小高い丘の上だった。そこには「龍恋の鐘」と呼ばれる鐘と、無数の南京錠が取り付けられている金網があった。観光地によくある、「恋人2人で鐘を鳴らして南京錠をとりつければ、永遠の愛が叶う」という代物だ。

鐘の前では恋人たちが行列待ちをしていて、なんとなく気持ちが冷めてしまうのを感じたのだけれど、ともかくもせっかくだから鐘も鳴らしたいし、鍵もつけたい。

南京錠が前の商店で売っているということで、僕は彼女に「買ってくるからベンチに座って待ってて」と伝えて、ひとりで南京錠を買いに走った。

10数分後、僕が息を切らしてもどってくると、遠い海を眺めながら、イヤホンで何かを聞いている彼女の後ろ姿が目に入った。

「お待たせしました」

そう言って僕がイヤホンを取ると、振り向いた彼女の顔は、涙でグシャグシャになっていた。

「えっどうしたの?」

馬鹿みたいな言葉しか、僕は口にできなかった。

「なんでもない」
「わけないでしょ」

何度か言葉を交わしても、彼女は何も教えてくれない。

最後に彼女は、何も言わず、自分の片耳に入っていたイヤホンを取り外し、僕の耳の中に入れた。流れて来たのは、中島みゆきの『糸』だった。

僕はなんとも言えず、ただ2人で『糸』を聞いていた。曲が終わると、彼女がボソボソと話し始める。

「もうすぐね、ビザが切れるから、わたしは日本を出なきゃいけないの」
「それでね、日本を出たら、植松さんはわたしのことを忘れちゃうんだよ」
「でもね、大丈夫。忘れても」

ゆっくりと、途切れ途切れで喋っているのに、僕は自分の言葉を挟むことができなかった。

彼女が1年足らずで帰国してしまうことは当然知っていたけれど、僕はそれでも彼女との関係が続くと信じていたし、確信も根拠もなく、いずれまた日本で一緒に暮らせると思っていた。

ビザのことも、海外で働くことのハードルも、僕はよくわかっていなかった。
あとから知ったけれど、彼女は日本で就職すること、そのために必要なことをかなり詳しく調べていた。2人の未来のことを、彼女は真剣に考えてくれていた。

結局その日はそのまま鐘を鳴らすこともなく、僕たちは帰路についた。
帰り道で僕は、「大丈夫」「なんとかなる」と、馬鹿のように繰り返すだけだった。

肩の毛をちょうだい

彼女が日本を離れる最後の日、僕たちは2人で羽田空港へ向かった。電車の中で、その日離れ離れになるとは思えないくらい、僕たちは普段通りの言葉を交わした。

あれから僕は色々と調べ物をし、でもわかったのは異なる国籍の人間が暮らす難しさだけだった。

見送りロビーに来て、もう彼女と別れなければならないというその時、彼女が僕に言った。

「ねえ、肩の毛をちょうだい」

驚いて彼女の顔を見返したあとで、僕は「ふは」と笑い声を上げてしまった。たしかに僕の右肩には、1本だけ太い毛が生えている。抜いても抜いてもまた同じ場所から生えてくる、縮れた1本の毛が生えてくる。

その肩の毛のことを、僕は前に一度だけ彼女に教えたことがあった。

「この毛のことを教えるのは、あなたがはじめての相手です」

そう言った時、変に彼女が笑って、喜んでいたことを覚えている。その毛だ。

「わたししか知らない、植松さんのことを、思い出に持って帰りたい」

感情がこみ上げて来ているのを隠して「わかったわかった」と、僕はトイレで肩毛を抜いて彼女に渡した。彼女はそれを手帳に挟み、笑顔で手をふりながら、出発ロビーへと向かっていった。

「わたししか知らない、植松さんのことを、思い出に持って帰りたい」
彼女の姿が見えなくなった途端、彼女の言葉が急に頭に反響し、涙がこぼれだして来た。ロビーでは、卒業旅行だかに行く学生たちが賑やかに騒いでいる。泣きながら僕は彼らに無性に腹が立ってきた。今、彼女が日本からいなくなってしまうというのに、どうしてそんなに楽しそうに笑えるんだ?  泣きながらしばらくの間、僕はそこから動くことができなかった。

帰り道の電車では、彼女が教えてくれた中島みゆきの『糸』を聞きながら帰った。

それから8年、僕の目から涙が流れたことはない。

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